共感覚は、実は未発達なだけ
3月は緑色をしていて、右手前方にある。
この時間認識も共感覚者に特有な時間の感覚であると、最近知りました。 色のついた各月が並んでフラフープ状に浮いており、記念日を思い出すような時は、この輪を正面に外から見ています。
月の色は、実際には少し透けて輝いていて、CGみたいな色です。 おもちゃなどからインプットされた数字が持つ色から来ているのか、逆なのかはわかりません。 若芽の3月や海の8月、収穫の9~10月、クリスマスの12月、氷の1月、梅の2月などを考えると、カレンダーで見た色が数字の色に採用された蓋然性も高いです。黄色と黄緑は色鉛筆が無かったのでペンで代用。質感が特別なわけではありません。
子供の頃は皆に共感覚があるとする説があります。
少なくとも子供のときほど共感覚のある人が多く、また共感覚者のなかでも、若い時のほうが共感覚が強かった人が多いそうです。
共感覚者の脳では、神経細胞の分離が見られないという話もありますので、要するに、共感覚とは発達障害の一種、または似たようなものというわけです。
少なくとも、未成長の時には感覚器官が未分であるということは事実のようです。
成長するにつれ、視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚などと、各々の感覚器官がはっきりと拡張、複雑化、精密化しながら形成され、神経も育ち、脳とともに自立し、分離された純感覚を得ていく構造ならば、どこかが未分のまま残る人もいくらかは出そうです。
僕は自身の共感覚に気づいたのが遅く、未成年だったときの認識段階を確認するチャンスはありませんでした。しかし幼少時から知っている曲ほど、色がビビッドという気がしないでもありません。文字などは特に違いはないような気がします。
誰から共感覚者だとはハッキリしない
「共感覚は発達障害である」と言うことは、「共感覚には希少性や特殊性が無い」と言っているようなものです。
各人が認識する副感覚の濃さや、副感覚が共にある対象の多さには、少なくとも思春期までは度合いがあることになるからです。
発達は段階的な現象です。神経細胞や感覚器官が2個くっついている人もいれば、100個くっついている人もいます。
共感覚度は、皆が0-100など均質に分布するのでしょうか。それとも、0の人が8割で、1-100の人が2割といった分布になるのでしょうか。
物理的に並ぶ神経の分離・融合は、神経の位置に依存します。神経には磁石のような相互位置決定要素はなく、臨界(大家は住宅の運用により持家が増え、住所を持てぬ貧乏人は職を持てず貧乏スパイラルというように、あるラインから増加傾向に、あるラインから減少傾向にと、二極化に向かう構造)する性質はないでしょう。
“神経1本をサイコロ1つとし、1か6なら左右に寄りすぎとし、隣が6か1なら融合とする” というような、単純な確率的問題であれば、神経細胞や感覚器官が少しくっついている人ほど多く、沢山くっついている人ほど稀になります。
共感覚者の実数では、感覚の融合が弱い人ほど数が多く、実際に色が眼前に浮かぶような人ほど数が少ないと思われ、こうした位置確率的な分布をしていると思われます。
しかし、色々な分布パターンが考えられます。たとえばタテに長い神経細胞集団がケーブル状とすると、断面は円形です。これが糸状にヨコをゆく別の神経と癒着するとすると、癒着距離が1の人(円の端っこに線が当たっている人)は稀で、100近くくっついている人(直径線上に線が融合している人)ほど大勢いることになります。この構造であれば、“共感覚があるとなれば、大抵の人はかなり強いものをもっている”ことになります。
今は9月なので、3月のことを考える時はこんな感じです。僕は土星の輪の、9月の上に立っているというか、プールの水のように胸のあたりから輪が続いている感じです。来年の3月も、去年の3月も一緒です。 アングルや立ち位置を常に自由に変えられる人もいるようですが、僕は基準月を置かずに俯瞰するときは正面夏上に固定しています。 裏返すことは常にできません。
http://gigazine.net/news/20160617-rare-humans-see-time/
によれば、この手のカレンダーを持つ人は、通常の3倍の記憶力を持つといいますが、僕はそれほどではありません。 文章の記憶はかなり良く、中高の頃は科目によっては1日で満点近くをとれたので、級友達に驚かれることがありましたが3倍はありません。 ちなみに1年分(3期分)x3教科=9日間あれば大学入試も行ける計算と思って実行しましたが普通に全滅しました。 また曲を覚えて暗誦したり、会話中の相手の動作などの様子を覚えることは苦手で、携帯電話やチャックを忘れることは多いので、別の記憶力とのトレードオフのようです。
純感覚者はいるのか
共感覚度がゼロの純感覚者も存在しえます。融合のサイコロが振られないケース、1がでても6が出ても隣と接触しないほど神経間の距離が遠い人が考えられるからです。
完全分離の人がいるとすれば、神経が1cm離れていても10cm離れていても共感覚度はみなゼロなので、感覚の融合度は全員一律にゼロ固定です。そのため、感覚融合に度合いのある共感覚者と、感覚融合がゼロの非共感覚者が別れる可能性もあります。
それでも脳のミクロ性やヒトの物理的成長の性質から思うに、完全分離者が多いということは考えにくいです。
それに、音色、暖色・寒色なんて言葉がまかり通っています。暖味、音臭といった言葉がないのは、それなりの意味があるはずです。 「くだらない・くだる」 「だらしない・だらしある」 「うさん臭いのうさん」 といったような言葉への疑問を、こうした共感覚的な語に挟む人はいません。少なくとも沢山のこうした言葉を知る年代には、なんらかの納得があったと考えるのが自然です。
時間シリーズ。時刻では、一日は上に向かって進みます。主に日光の色から色がついていますが、数字の色の影響も受けています。どうやら小学生の一日で、朝から夕方には登下校の空や土、緑の色、教室の色がついているようでカラフルですが、夜はいい加減です。 昼休みや放課後のほうが楽しそうです。 18~19時は夕日と夜の色、22時は夜空と文字のピンクが選ばれることもあり、一色固定ではありません。
夜になると、これをロールペーパーにした感じで、22時や23時を上から見下ろす感じになります。
朝の4時~6時、夜の11時ごろから3時ごろまでは一緒の扱いなので、ここまで起きてたら一緒となりがちで、夜更かしや徹夜をしやすいです。徹夜したり、昼夜が逆転していてもこの図の感覚は同様です。
わりと目立つ人を共感覚者と呼んでいるだけでは?
すなわち、
この人は共感覚者である
この人は共感覚者でない
というより、
この人の共感覚度は87である
この人の共感覚度は23である
というのが実情に近いように思われます(余談ですが、僕には素数や奇数は尖っており、ひっかかる音です)。
で、共感覚度10くらいまでは数が多く、相対的に気にならないというのが実情ではないでしょうか。
現代社会は頭でっかちで、しばしばファシズム性を帯びます。
この手の少数派の特性をはかるにおいて、目立つ度合いになった所でその他との間に線を引き、それを二元論的に絶対有無として信仰する性質があります。
目立つ数というのは、概してクラスで1番くらい。20人に1人というところでしょう。男子で身長180cmを超えるとか、偏差値を使えば35とか65くらいです。その辺に線が引かれます。
LGBTとかADHDとか左利きとか、この手の特性の持ち主は、20人に1人くらいに集束し、最初は“極レア!”として喧伝され、次に“意外といる!”とネタにされてきました。共感覚への信仰もこうしたものでしょう。
共感覚者は天才なの?
才能とは民衆の信仰です。
“ 野球が上手い人 ” というのは、生まれてきたら野球という自分の身体や環境に有利な競技があって、流行ってて、そこにたまたまハマっただけです。容姿や知性もそうです。
“金メダリストは人間として優秀だ”と考えることは、僕の宗旨ではありえません。
共感覚も同じです。
需要が多いところに少量が供給されれば、誰でも天才となります。
民衆が“持ち上げれば自分の利益になると思いこんだものを持ち上げている”だけなので、ある種の煩悩ですよ。
その上で、共感覚には需要すらあまりなく、さらにそれほど珍しい能力でもないので、それ自体には共感覚がないこと(純感覚があること)と同じくらいに価値がなく、同じくらいに価値があります。 “民間信仰の信奉者に対して俺SUGEE的な宣伝ツールになる” という以上のモノではないと思います。
あらゆる現象において、完全上位互換ということは起こりえません。
字が字として、音が音として独立している世界を、僕は知りません。
共感覚者は、純粋に文章だけで、純粋に音感だけで感動するといったことはできないのです。
純粋文字世界や、純粋時間感覚を知っている人のほうが稀かもしれません。
こうしたことは当たり前ですよね?共感覚者には、純感覚が無いんですから。
これだけのことが、理解できないのが現代社会の実力です。
記憶力や芸術的センスといったことへの共感覚の印象は、共感覚者の多くが感じているかと思いますが、世間一般の思い込みと実態とは何もかもが違います(次回以降に述べます)。
絶対音感者(共感覚と同じく、実は諸刃の剣)と話が通じたものですが、実際に特異とされる状況下にあると、才能闘争が繰り広げられるカツカツした競争環境とか、ポジション争いにおける喧伝とか、ありえないですよ。会話にならないというか、宗旨が違うんです。というか認識すら違うわけですから。
どうやら、マイノリティーの生きづらさを、ある程度理解できるという才能はあります。
次回は、純感覚者と比べて、共感覚者にできること・できないことの例を挙げます。





