共感覚は、実は未発達なだけ

 

 

3月は緑色をしていて、右手前方にある。

 

 

この時間認識も共感覚者に特有な時間の感覚であると、最近知りました。 色のついた各月が並んでフラフープ状に浮いており、記念日を思い出すような時は、この輪を正面に外から見ています。
月の色は、実際には少し透けて輝いていて、CGみたいな色です。 おもちゃなどからインプットされた数字が持つ色から来ているのか、逆なのかはわかりません。 若芽の3月や海の8月、収穫の9~10月、クリスマスの12月、氷の1月、梅の2月などを考えると、カレンダーで見た色が数字の色に採用された蓋然性も高いです。黄色と黄緑は色鉛筆が無かったのでペンで代用。質感が特別なわけではありません。 

 

 


 子供の頃は皆に共感覚があるとする説があります。
 少なくとも子供のときほど共感覚のある人が多く、また共感覚者のなかでも、若い時のほうが共感覚が強かった人が多いそうです。

 

 共感覚者の脳では、神経細胞の分離が見られないという話もありますので、要するに、共感覚とは発達障害の一種、または似たようなものというわけです。

 

 少なくとも、未成長の時には感覚器官が未分であるということは事実のようです。
 成長するにつれ、視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚などと、各々の感覚器官がはっきりと拡張、複雑化、精密化しながら形成され、神経も育ち、脳とともに自立し、分離された純感覚を得ていく構造ならば、どこかが未分のまま残る人もいくらかは出そうです。

 

 僕は自身の共感覚に気づいたのが遅く、未成年だったときの認識段階を確認するチャンスはありませんでした。しかし幼少時から知っている曲ほど、色がビビッドという気がしないでもありません。文字などは特に違いはないような気がします。

 

 

 

誰から共感覚者だとはハッキリしない


 「共感覚は発達障害である」と言うことは、「共感覚には希少性や特殊性が無い」と言っているようなものです。

 各人が認識する副感覚の濃さや、副感覚が共にある対象の多さには、少なくとも思春期までは度合いがあることになるからです。

 

 発達は段階的な現象です。神経細胞や感覚器官が2個くっついている人もいれば、100個くっついている人もいます。
 共感覚度は、皆が0-100など均質に分布するのでしょうか。それとも、0の人が8割で、1-100の人が2割といった分布になるのでしょうか。


 物理的に並ぶ神経の分離・融合は、神経の位置に依存します。神経には磁石のような相互位置決定要素はなく、臨界(大家は住宅の運用により持家が増え、住所を持てぬ貧乏人は職を持てず貧乏スパイラルというように、あるラインから増加傾向に、あるラインから減少傾向にと、二極化に向かう構造)する性質はないでしょう。
 “神経1本をサイコロ1つとし、1か6なら左右に寄りすぎとし、隣が6か1なら融合とする” というような、単純な確率的問題であれば、神経細胞や感覚器官が少しくっついている人ほど多く、沢山くっついている人ほど稀になります。

 共感覚者の実数では、感覚の融合が弱い人ほど数が多く、実際に色が眼前に浮かぶような人ほど数が少ないと思われ、こうした位置確率的な分布をしていると思われます。

 

 しかし、色々な分布パターンが考えられます。たとえばタテに長い神経細胞集団がケーブル状とすると、断面は円形です。これが糸状にヨコをゆく別の神経と癒着するとすると、癒着距離が1の人(円の端っこに線が当たっている人)は稀で、100近くくっついている人(直径線上に線が融合している人)ほど大勢いることになります。この構造であれば、“共感覚があるとなれば、大抵の人はかなり強いものをもっている”ことになります。

 

 

 

今は9月なので、3月のことを考える時はこんな感じです。僕は土星の輪の、9月の上に立っているというか、プールの水のように胸のあたりから輪が続いている感じです。来年の3月も、去年の3月も一緒です。 アングルや立ち位置を常に自由に変えられる人もいるようですが、僕は基準月を置かずに俯瞰するときは正面夏上に固定しています。 裏返すことは常にできません。
http://gigazine.net/news/20160617-rare-humans-see-time/

によれば、この手のカレンダーを持つ人は、通常の3倍の記憶力を持つといいますが、僕はそれほどではありません。 文章の記憶はかなり良く、中高の頃は科目によっては1日で満点近くをとれたので、級友達に驚かれることがありましたが3倍はありません。 ちなみに1年分(3期分)x3教科=9日間あれば大学入試も行ける計算と思って実行しましたが普通に全滅しました。 また曲を覚えて暗誦したり、会話中の相手の動作などの様子を覚えることは苦手で、携帯電話やチャックを忘れることは多いので、別の記憶力とのトレードオフのようです。

 

 


純感覚者はいるのか

 

 共感覚度がゼロの純感覚者も存在しえます。融合のサイコロが振られないケース、1がでても6が出ても隣と接触しないほど神経間の距離が遠い人が考えられるからです。

 完全分離の人がいるとすれば、神経が1cm離れていても10cm離れていても共感覚度はみなゼロなので、感覚の融合度は全員一律にゼロ固定です。そのため、感覚融合に度合いのある共感覚者と、感覚融合がゼロの非共感覚者が別れる可能性もあります。

 それでも脳のミクロ性やヒトの物理的成長の性質から思うに、完全分離者が多いということは考えにくいです。
 それに、音色暖色・寒色なんて言葉がまかり通っています。暖味、音臭といった言葉がないのは、それなりの意味があるはずです。 「くだらない・くだる」 「だらしない・だらしある」 「うさん臭いのうさん」 といったような言葉への疑問を、こうした共感覚的な語に挟む人はいません。少なくとも沢山のこうした言葉を知る年代には、なんらかの納得があったと考えるのが自然です。
 

 

 

 

 

時間シリーズ。時刻では、一日は上に向かって進みます。主に日光の色から色がついていますが、数字の色の影響も受けています。どうやら小学生の一日で、朝から夕方には登下校の空や土、緑の色、教室の色がついているようでカラフルですが、夜はいい加減です。 昼休みや放課後のほうが楽しそうです。 18~19時は夕日と夜の色、22時は夜空と文字のピンクが選ばれることもあり、一色固定ではありません
夜になると、これをロールペーパーにした感じで、22時や23時を上から見下ろす感じになります。

朝の4時~6時、夜の11時ごろから3時ごろまでは一緒の扱いなので、ここまで起きてたら一緒となりがちで、夜更かしや徹夜をしやすいです。徹夜したり、昼夜が逆転していてもこの図の感覚は同様です。

 

 

 


わりと目立つ人を共感覚者と呼んでいるだけでは?

 

 

 すなわち、

 この人は共感覚者である

 この人は共感覚者でない

 というより、
 
 この人の共感覚度は87である

 この人の共感覚度は23である

 というのが実情に近いように思われます(余談ですが、僕には素数や奇数は尖っており、ひっかかる音です)。
 
 で、共感覚度10くらいまでは数が多く、相対的に気にならないというのが実情ではないでしょうか。


 現代社会は頭でっかちで、しばしばファシズム性を帯びます。

 この手の少数派の特性をはかるにおいて、目立つ度合いになった所でその他との間に線を引き、それを二元論的に絶対有無として信仰する性質があります。

 目立つ数というのは、概してクラスで1番くらい。20人に1人というところでしょう。男子で身長180cmを超えるとか、偏差値を使えば35とか65くらいです。その辺に線が引かれます。
 LGBTとかADHDとか左利きとか、この手の特性の持ち主は、20人に1人くらいに集束し、最初は“極レア!”として喧伝され、次に“意外といる!”とネタにされてきました。共感覚への信仰もこうしたものでしょう。

 

 

共感覚者は天才なの?


 才能とは民衆の信仰です。
 “ 野球が上手い人 ” というのは、生まれてきたら野球という自分の身体や環境に有利な競技があって、流行ってて、そこにたまたまハマっただけです。容姿や知性もそうです。
 “金メダリストは人間として優秀だ”と考えることは、僕の宗旨ではありえません。

 

 共感覚も同じです。
 需要が多いところに少量が供給されれば、誰でも天才となります。
 民衆が“持ち上げれば自分の利益になると思いこんだものを持ち上げている”だけなので、ある種の煩悩ですよ。

 

 その上で、共感覚には需要すらあまりなく、さらにそれほど珍しい能力でもないので、それ自体には共感覚がないこと(純感覚があること)と同じくらいに価値がなく、同じくらいに価値があります。 “民間信仰の信奉者に対して俺SUGEE的な宣伝ツールになる” という以上のモノではないと思います。

 

 あらゆる現象において、完全上位互換ということは起こりえません。

 字が字として、音が音として独立している世界を、僕は知りません。
 共感覚者は、純粋に文章だけで、純粋に音感だけで感動するといったことはできないのです。

 純粋文字世界や、純粋時間感覚を知っている人のほうが稀かもしれません。

 

 こうしたことは当たり前ですよね?共感覚者には、純感覚が無いんですから。

 これだけのことが、理解できないのが現代社会の実力です。

 

 記憶力や芸術的センスといったことへの共感覚の印象は、共感覚者の多くが感じているかと思いますが、世間一般の思い込みと実態とは何もかもが違います(次回以降に述べます)。


 絶対音感者(共感覚と同じく、実は諸刃の剣)と話が通じたものですが、実際に特異とされる状況下にあると、才能闘争が繰り広げられるカツカツした競争環境とか、ポジション争いにおける喧伝とか、ありえないですよ。会話にならないというか、宗旨が違うんです。というか認識すら違うわけですから。
 どうやら、マイノリティーの生きづらさを、ある程度理解できるという才能はあります。

 

 

 次回は、純感覚者と比べて、共感覚者にできること・できないことの例を挙げます。

 

 


 
 
共感覚という性質を御存知でしょうか。
 


 字を見ると、味がする
 
 音を聴くと、くすぐったい
 

 
 といったように、ある感覚器官で受けた情報により、別の感覚器官で受けるはずの情報を受ける性質です。
 
 
 僕には幾分かコレがあるので、少し研究してみました。

 共感覚にある、都市伝説的な偏見 ( というより羨望に近い印象のようですが ) を取り払う結果になるのではと思います。
 
 

 

共感覚の例


 共感覚の一例を示します。


 僕の中で、緑色のものとは、

 

  ・葉っぱ

  ・抹茶

  ・3

  ・エメラルド

  ・黒板

  ・仙台、上野、丹波

  ・エ、ケ(カタカナ)

  ・徳川家康、源頼朝、源義経

 

 

 といったものです。

 以上は、文字から色を感じるという性質により、字から色が来ていたり、話の内容や風土の印象から緑系の色を持っているものを、適当に上げてみたものです。
 
 
 文字に色があるという人は、共感覚者の中では2番目に多く、一番多いのは、味で匂いが、匂いで味がするとタイプだそうです。中には触ると味を感じるという人もいるそうですが、僕の場合は、視覚や聴覚に色(色印象)がついていることが多く、匂いなどは稀です。

 

 

 僕の場合は、文字から色を感じる中では、割と強いほうです。

 色は感じる程度ですが、文字なら漢字まですべてに見え、部首やケタで固まった数字など、構造上複雑化しており、音や人などにも色を感じ、光沢と濃淡があるので、色の種類も数十はあると思います。

 光沢はで、音や頭痛では光だけが来るので、別かもしれません。匂いや味なども多少ありますがリンク先は色です。

 

 比較的弱い人にはアラビア数字だけ見えるということです。続いてアルファベットが多いとか。

 強い人には色が実際に見え、円周率などの巨大な固まりもカラフルな色が見えたり、味や触感など何にでも目から色が見えるそうです。さらに諸感覚で併発し、音から味と、触覚から色との多次元コンボが起こっているようです。

 

 

魚屋のイメージです。雑ですが、茶色い部分は背景で、赤や銅色の文字が書いてあるだけです。

下部の青めのところが魚棚で、白い字は発泡スチロール、赤はタイやマグロ、黒や青の字は青物を連想させます。ピンクの2や5は赤貝やアサリです。

この能力、もしくはコレを役立てる方法を思いつく人はいないでしょう。

僕がなにかをやらかして、ご近所の方「やっぱりねえ」となったときに裁判所に提出されるくらいでしょうか。

 

 

 

 
「芸術家とかに多いんでしょ?」

 

 といいますが、はっきりと勘定したデータがあるわけではないようです。 

 またいくらかある変人指数のうち一項目が尖るといった感じで、能力的限界が云々と言ったことはありません。 ほぼすべてのケースで、羨しがったりしているのは誤解から来ています。


 この尖った特殊能力が世間のニーズに合致しているか否かはまったく別の話です。
 むしろ、他人との共感に問題があると言う意味で、
芸術面で生活するにはデメリットのほうが大きい特性のように思えます。ADHDに一時の異常な散漫さと一時の異常な集中力が発揮されるのとは汎用性が違います。

 

 共感覚の方向性も様々で、例えば触感や音程から味を感じる人が、写真の構図やカメラの使い方がうまくなる理由はありません。しかし、空間に色が着いていたり、距離感で音が聞こえるといった人ならば、カメラを持ったときに個性が発揮できるかもしれません。ただしこの人がピアノを弾いても普通です。
 

 共感覚は、その特殊性によって、リア充になることがVery Hardモードになります。
 安易な気持ちで子供につけさせようなどは到底おすすめできません。

 

 


どうやってわかるの?


 共感覚保持者がなぜレアと思われるかというと、第一の理由は、本人が気づいていないから。

 自分としては地球に重力があるくらいに当然のことなので、一応生活はできているわけです。

 そこで他人と比べて初めて気づくからです。 しらぬまま生涯を終えた人も多いでしょう。

 

 僕も35歳頃になって、こういうことがあって教えてもらいました。

 

 「あれは確かページだったよな。 もしくはページかも」

 

 「なんだそりゃ、てかよく覚えてんな」

 

 「茶色寒色のページ(番号)だったよ。どっちかだ」

 

 「なんだそりゃ」

 

 「ほら、数字って色あるじゃん。他の人はそれぞれ漏れと違う色だと思うけど

 

 「ねーよw

 

 「いやさ、何かイメージというかキャラクターがあるでしょ。色じゃなくて、音とか何かかもしれないけど、何かと関連があるはず

 

 「ねーよks(笑)

 

 「ねーわけねーだろこのksがwwwww

 

 そこでルームメイトのR7に調停を。

 

 「面白いね。僕は何色ですか

 

 「淡いピンクと、肌色が少し灰色がかった感じのほわんとした色だよ」

 

 「へー」

 

 「で、俺、何色?

 

 「ねーよwww」

 

 となったのです。

 

 このときは、僕の伝え方が問題で、通じていないのだと思っていました。
 ときどきあるじゃないですか。あとで「ああ、そういうことだったのか」みたいな。

 

 そしたら、しばらくして最初の人が、

 「ぽまい、ちょっとおかしいんじゃね?たぶんナントカってやつ。こんど調べてみれば?」

 という話を持ってきて、それが共感覚でした。

 

 その後も、僕には当たり前すぎて、そのナントカ(共感覚)すら忘れていました。
 地球に重力があることを、改めて調べる気にはなかなかなれませんよね?

 

 

 

 

数字の色です。2(赤も)のように、複数ある文字もあります。これが月や時刻などになると、色が変わります。

記憶がたやすくなるなど、近代社会で役立つことが多いと思われる特性です。
英語スペルの場合は色がバラなことから、色は数字の大きさや順番ではなく、
文字に依存していることがわかります。

 

 

 

判明した感じ

 

 ということで、ある時、陰陽五行説を調べてみたら、これは共感覚じゃないのかと、このときの話を思い出して、ようやく調べてみた次第です。

 

 「みんなには、色とかないのか!!!

 

 という衝撃の結果を得ました。


 いくらか説明サイトを見たところ、何から何まで、書いてあることが自分に当てはまりました

 非常に奇妙な感覚です。

 

 

 外国向けのガイドに

 

 <スモウは一対一で戦われる格闘技である>

 

 とか書いてあると、

 

 「言われてみればタッグマッチとか無いよね、考えもしなかったわ」

 

 などと思うものですが、そんな感じで自分のことが、ほかの人に説明されている感じです。

 

 

 <地球人は非光合成人の一種で、頭部と植物との共生はしない>

 

 「ほう、ほかの星の人は髪じゃなくて植物なのか!」

 

 

 <砂糖を甘いと感じる人は1%にすぎず、99%は清涼感のことを“甘い”と呼んでいる>

 

 「ええええ!ぽまいらは砂糖って甘くないの!?

 

 みたいな感じです。

 

 

 

“黄色い声” は?


 20歳頃、僕に共感覚が発覚する10年以上前の話です。

 仲間と認識の話になったついでに

 

 「オレには色があるけど、みんなもなんかしらあるだろ?」

 

 ということを言ったのですが、理解を得ませんでした。
 それもそのはずです。多くの人には、字が字として独立した情報だというのです。

 「共感覚者は、他人も自分と同じだと思っているので、他人に指摘されるまでに気づくことは稀である」ということも、調べた先々に書いてありました。
 
 しかし、陰陽五行説では、青春は東朱雀は南、と、色や方角やキャラクターがリンクしています。 文字や国にも色(など)があることは関係が深いのではないかという気がして、これと共感覚を少し調べてみたこともありました(結果は得られず)。


 「黄色い声」などと言いますが、これは共感覚ではない連想だと書かれていた記事を見ました。しかし後述しますが、僕は高い音ほど輝いているので、明るく見える太陽を示す色や電球色に近い、黄色に感じています。

 これを描いた人自体、気づいていない可能性があります。

 共感覚者は、かなり埋没していると思います。

 

 

 

 

ランダムに鳴るコードの色を回答してみたところ、低い音には濃い色高い音には黄色やライム色という傾向があります。僕にとってはマイナーは錆色メジャーは緑色や黄色です。光っても黄色表現になるので回答しづらいのですが、それでも一定の傾向を示します。
絶対音感と共感覚はかなり近いところにあると思われ、こうした結果はいずれかによるようです。絶対音感も親の声を聞き分けると言った能力の、発達障害のひとつかもしれません。僕には絶対音感は無いと思われ、あるとしても微量で、ピアノなどの音質でGやCをざっくり記憶している程度で、このテストのペースだと飲まれてしまい、聴いた音がトニック(キー)になってしまいます。なので共感覚による結果というのはウラがとれます。

 


珍しくないの?


 残念ながら?共感覚者は、大して珍しい存在ではないでしょう。
 数万人に一人、100人に1人という説があるそうですが、
20人に1人くらいはいるのではないでしょうか。

 
 自身で共感覚を “ 発見 ” することは、今でもたまにあります。
 
 ちょうど先日

 

 「ゲームに臭いがある

 

 というカキコミをネットで見て、

 

 「子供んときあったあったあったあった!!!エグゼドエグゼスとか4面くらいで汗臭えんだよ!!テグザーもなあ!!!でもみんなは理解してないぞ!」
 

 と突っ込みを入れたくなりました。

 

 共感覚は子供のときに強いらしく、僕の場合は、緑や青で描かれた世界地形地図にガムテープやゴムみたいな臭いがあったり、部屋の薄暗さにも臭いがありました。

 今は匂いを感じるのは、気温(か日光の角度?)や、ある種の映画のサビ臭さくらいでしょうか。

 こうした発覚が他人にも起こりうると考えれば、埋蔵共感覚者はかなり多そうです。

 しかも匂いと触覚の不分といったような共感覚であれば、他人との違いを明確に認知する機会がかなり限られると思われ、知らないまま過ごしている人が相当数いると思えるわけです。

 中には、自分では明確に分けているつもりという人もいるでしょう。

 

 

 次回は、共感覚のトリックなどをご紹介。

 

 実は、「共感覚がある」と言う表現に、すこし御幣があるようです。

 

 

 

 

 

 

 

1. 昔の少女マンガには、意地悪な美女がいた

 

 『ガラスの仮面』とか、『王家の紋章』とか『キャンディ・キャンディ』とか。

 あと『ベルばら』ですね。

 古典的な少女マンガについて話していたら

 

 「 最近は、美人は性格がいいということになっている 」

 

 という話が出てきました。

 たしかに、そうですね。

 昔の少女マンガには、意地悪な美人というモチーフが、このようなブログの読者がロリコンのキモメッソであるくらいの高確率で出てきます。 最近の少女マンガは、主人公の友達が学校のアイドル級の美女で(主人公は設定上 “ 普通の ” 女子)、主人公とは相互補助の関係だったり、それなりの苦悩を抱えたりしていると思います。

 

 

 

2. ルックスと性格が関係ある、ということが成立する条件
 

 

 “美人は性格がいい
 
 という命題は、外見力と性格の美徳に、相関関係があるという条件で成立します。

 

  “ 美人は性格が良い ” となるためには、 この相関関係が、“ 美人は愛されて育つので、性格が歪まない ” という因果など、相互に増加するものでなくてはなりません。 “ 性格が悪いから美貌が引き立つ ” といった反比例ではいけません。

 また、周囲の判断者に、美人への僻みがあっては成立しません。 “ 天は二物を与えず ” のように人間同士のパワーバランスを取ろうとするバイアスが働かず、 “ 美人は性格が悪い ” と思おうとしないといった受け手側の主観も必要です。

 “ 性格がいいと美人に見える ” という主観の裏返しが “ 美人は性格がいい ” である 、と言う見方もありますが、それを認めて含んだ上で、“ ブスだけど性格がいい ”、 “ 美人だけど性格が悪い ” という価値観が残る以上、また対比でそれぞれの美徳悪徳が際立つ以上、“ブスで性格も悪い”を含めた4つは対等とします。

 

 

 こうした条件を備えた上で、美人であるか否かと、性格の形成は関係するとされています。 

 この概念は大昔からありました。

 この命題のような、 “ あるの持ち主の人格が、その力によって美徳を身に着けている ” という状態を “ ” といいます。
 

 

 

3. 誰でも身につけられる美徳、義
 

 

  ” 美人 ” が持てる “ 性格のよさ ” の秘密を暴くために、ほかの徳目も紹介します。

 

 

 『老子』には、この “ 徳 ” のうような美徳が4つ出てきます。
 

 、 、 、 義 です。

 


 4つ目のは、最低限の徳目です。

 義務、義理といった言葉に表されるよう、イヤイヤだけど慣習や規則や常識や美徳だからやっておくというもの。

 電車に乗って座席に座っていたら、妊婦や老人が入ってきた際に、 「 しゃーねーな 」 と席を立つことです。 「 義によって立つ 」 というのは、本当は家で寝てたいけど、仕方ないので活動するといった意味です。 義はどんな立場の人にも持てます。 ルールだからゴミを分別する、とかも義です。

 中国思想はユルいので、義も一応の徳目ですが、欲望の転化(親切をせねば、などというけど本当は褒められたいから自分がしたい)に近く、キリスト教や仏教やイスラム教だと、イヤイヤ慈善をするのは勧められない傾向が強いです。  基本的に美人はこれを必要とはしません。

 

 

4. 凡人の、そして万人の美徳、仁
 

 

 3つ目のは、他者への愛情(フィリス)、いつくしみや同情です。

 動植物や公害に苦しむ人々に思いを馳せてゴミを分別したり、電車の座席を 「 あいつ大変そうだな 」 と感じて譲ることです。

 

 仁が単純に他者愛を示す場合、 「 お国のために特攻して死ぬぞ 」 、とか、 「 私が生きていたら迷惑だから自殺しよう 」 とか、自己の肉体攻撃に向かうという欠陥があります。 戦前の日本でも、義より仁が上だと認識されており、たとえば軍歌の『戦友』は、 「 悲しく仕方ないけど、義で兵隊をやっている 」 という歌詞でしたが、末期には厭戦歌とされて禁止になります。 「 会社(国家)のために喜んでサビ残(特攻)して死にたいよね? 人間だったら当然だよ! 」 というわけです。 この意味における仁は、保持者が限られます。  概して、愛されて育つ美人のような、徳のある人は持たないものです。 ニーチェのいう奴隷道徳に該当するものともいえます。

 

 イエスは、自分を愛する(エロス)のと=で隣人を愛せというアガペー(皆を生んだ神の平等愛を、神のコピーである人間は持っているという信仰に拠る)を布教しましたが、ここでは無理をして席を譲ってはならないので、同じ愛の範疇なれど、だいぶ違ったものです。 仁の意味は未分なので、こうした愛も含みます。

 仁も、もともとは仁丹、杏仁豆腐(あんにんどうふ、アンズの種)という語があるように(人間の)中心、つまりハートという本能的な意味です。 本来は徳目でも何でもなく、かわいそうだ、助けたい、という素直な感情や欲求で、美徳でも悪徳でもなかったものです。 脈や息といった自然現象の一種ともいえ、人間の本質的な行動原則であり、この意味における仁は徳目の判断を超越しているといえます。 実行力に差はあれど、保持の条件はありません。
 

 

 

3. 選ばれた人の美徳、徳
 
 ナンバー2がです。
 金持ち喧嘩せず美人は性格がいいといったものです。スポーツマンシップは徳の体力依存版といえます。電車の座席でいえば、体力が余ってるので座らないといったものです。 座る必要がないから座らないという人は、都合のいい人ではありますが、性格がいいのとはちょっと違う印象ではありませんか?

 

 儒教などでは最高とされる徳ですが、これには重大な欠陥があります。
 白髪の70歳が90歳に席を譲るように、いずれの力も、他人と比べて力があるとされているものです。 いわば、力の無い人を踏み台に成り立っていない力はありません。
 誰か徳のある人がいれば、彼は自分が徳のある人物であるために、力の無い人を必要としています。特に金銭はシェアの問題なので、徳のある金持ちは他人を追い込んで喧嘩をさせることで、自分が余裕と自身を持ち、喧嘩をせずに済んでいます。 徳は持つ人が限られ、争奪戦が発生します


 クラス対抗リレーがあり、このクラスに足が遅いということで障害者を差別したり、誰かにイジメ(排除)が発生する構造がある場合、徳のある人はそんなことはしません。 アンカー選抜選手は、自分より遅い人が周囲に幾らでもおり、現状でモテモテだからです。 差別やイジメが問題になれば、天然で 「 やめろよお前ら、恥ずかしくないのか 」 とでもいっておけばいいです。 イケメンさらにモテモテです。
 徳のない人々、つまり脚の遅い人々のうち、仁も義も無い者が、足の遅い人を 「 いなくなれ 」 と攻撃します ( 彼らにとっての美徳は正義であり、足の遅い人を排除してクラスの順位を上げること、“ 汚物 ” を排除して教室を “ 清潔 ” にすることです )。


 こうした役目はカーストがある以上、が決まっています。 なので皆が徳を目指しても行き渡ることはありえません。 皆の脚が速くなれば、皆が普通の人になるだけです。 徳の教育は、むしろ争奪戦によるカースト化と差別心を煽るだけです。 徳のある個人も、心拠が自分の能力なので、地雷を飲み込んだ精神状態にあります。 
 

 

 

4. 徳のある美人の性格は別に良くはない

 

 美人という権威は、徳の一種です。 

 徳は収入、運動能力、外見、地位、学歴、血縁や地縁のブランドなど、あらゆる権威に共通します。
 

 “ 美人は性格がいい ” という条件下では、 “ ブスは性格が悪い ” という状態になっています

 

 この “ 性格の良い美人” は、本人が気づいているにせよいないにせよ、普通の子やブスを下敷きに性格を良くしているという奇妙な存在なので、本当に性格がいいかどうかは意見が割れそうです。

 

 普通の子がブスをいじめていれば、美人は天然で 「 かわいそうよ 」 と言えるのですが、それは機械的な役割に従っている過ぎません。 普通の子がブスを排除しているのは美人が美人として君臨しているからです。 このメンバーでは、美人の基準が変われば、その美人と普通の子やブスが入れ替わるだけです。

 この性格がよいかと言うと、悪いわけではないでしょう。リレーのアンカー選手の例だと “ つまらない男 ” で終わりそうな気もしますが、女子の場合はどうでしょうか。

 

 実際のところ、昔と今との違いがあるなら、妬みや、落ち度への攻撃が強烈な社会になって、美人に生まれて目立ってしまったら、余程いい人でないと、排除されて精神病に追い込まれるほどに殺伐としてきたというのが正解かもしれません。 つまり徳を大盤振る舞いさせるほど、格差と圧力が強くなったのです。

 このニヒルな視点だと、昔もまた

  私より美人 = 敵 = 美人であることは人格悪の一つ = 性格が悪い

 という感じでしょうか。 徳は争奪者、すなわち敵を作るのです。
 

 

 

5. カーストがなく無差別だとしたら


 

 最高の徳目とされているのが(タオ)で、これは別格です。
 『老子』 にもいくらかの説明や解釈がありますが、基本的には、本来的に 「 電車で席に座れることは、よいこと」 といった判断をしない状態です。

 座っていない場合は、そもそも譲る必要もないわけです。 座っている場合も、譲るのが良いこととも判断しないので、譲るかもしれないし、譲らないかもしれません。 譲る譲らないに優劣の区別はありません。

 

 たとえば今日、野球が負けるということがあったとします。

 しかしこの敗北が、年間のリーグ優勝争いを通してみれば必要なステップだったかもしれず、また今年の敗北は将来の黄金期のきっかけだったかも知れず、また野球の敗北が人生の伴侶やビジネスチャンスとの出会いになるかもしれないですし、先のことなんかわかりません。 そうなると勝ちとは何なのかは、自分が勝手に判断していることになります。 勝敗による喜怒哀楽の判断などは、知性の思い込みに過ぎないことになります。 または、仮に勝敗があるとしても、我々が楽しんでいるのは勝利ではなく、勝敗なのです。

 

 このように、タオにおいては、万事において区別をしません(『荘子』万物斉同)。  これは有無や生死においても同じで、 席を獲る、譲るについても、美徳についても同じです。 

 タオにおいては、善悪も美醜もないのです。
 

 

 

6. 美人の性格がいいか否かは判定できない

 

 

 さて、 “ 美人は性格がいい ” という命題は、現代の日本社会において真とされるのでしょうか。

 

 論理ゲームを試みてみましょう。
 “美人”の判定 に関しては、女子がみな美人(これは主観なので、本人が感じるしかありません)という条件が実現されるには、男が醜いということが必要です。 これには一定のコンセンサスがあったり、なかったりでしょう。 しかし今のテーマは人格形成の要因としての美醜なので、当人の自覚を根拠に美人かブスかを判断し、また他人からの判断も基準としましょう。 外見は鏡などから自身でも判断できるので、美人の判定条件はこの2つです。

 性格についても、そもそも何が良い性格なのかは判定者の主観に拠るしかありません。

 美という徳による “ 性格のよさ ” が前述のように怪しいため、徳による “性格の良い美人” は “ 性格はいいとはいえない ” とされるケースも加える必要があります。 つまり徳が否定される場合もあります。 つまり “ 美人だから性格がよくなるといった因果関係 ” は、意味がないのです。

 

 イエス的にいえば、美人(と自身が感じていたり、周囲にそう扱われる人)の性格に徳があることは当然で、法則的・合理的・機械的で、いわばつまらない女す。 ブス(と自身が感じていたり、周囲にそう扱われる人)の性格が仁を備えているときに、初めて人間としての深みが出てくることになります。

 この考え方を発展させれば、悪魔的に、 “ 美人だけど徳が無い ” という存在も合理的でなく、 “おかしい” 存在 、すなわち面白い女といえます。

 たとえば、自分の美貌と謀略を利用して、自分の子供の地位を上げようとするバツ1子持ちの女子とかが、かなりモテたりするのが現実です。 本人は悪魔のつもりでも、パートナーは 「 子供のために頑張っているいい子なんだ 」 と口を揃えます。 

 性格に鏡はないので、これについては1つ、他者の判断のみを基準とするしかありません。 こうした分別的な自己判断は、 “ 自分の性格を良いとすることは性格が悪いのか ”  といったループから出ることができません。

 

 こうして論理ゲーム( 『採用者の判定』 と題して)をしてみます。
 ある会社の面接を受けた人が、自身を美人と思っているかブスと思っているかにかかわらず、また性格にもかかわらず、採用担当者には“美人で性格がいい”とされ、この採用者がこのタイプを選び続け、蓄積すれば 、この会社では “ 美人は性格がいい ” という通念ができます。

 また別の会社の面接では、それぞれの採用者はこの人を “ ブスだけど性格がいい ” 、 “ 美人だけど性格が悪い ” 、 “ ブスで性格が悪い ” と判断し、彼らがそれぞれ同タイプを選んで蓄積すれば、それぞれの会社で “ ブスは性格がいい ” etc. と結論付けることがあり得るので、因果関係はないといえます。

 

 

7. 地位や権威の信仰

 

 月並みかもしれませんが、 “ 美人は性格がいい ” を真とするかは、個々の自由であるし、定見は作れないといったところでしょう。 ただし、 “ 美人の性格がいいことは、因果関係によって演繹的に導き出される当然 ” ということの否定は証明できたと思います。

 つまり徳の美女は、ただの人工知能人形や、妄想2次元女子と何も変わらないということです。 

 もちろん男だろうが、力が収入だろうが腕力だろうが知能指数だろうが何でも一緒です。 社会的成功者の性格が “ 良 ” かろうと、暴言を吐こうと刑務所に行こうと、だから何? ということです。 能力的個性と人格の善し悪しの因果関係を妄想することは、ポジション争いの激化しか生まないのです。 イケメンやオイシイ地位の保持者だけを殺す核兵器が開発されれば、色々なポジションが空くと思うので僕は押しますが、美女のほうは開発しないで下さい。

 

 少女マンガを見る限り、 “ 美人は性格が良い ” が真になったことは事実のようです。

 これが、美女達に窮屈な生活を強いているのでなければよいのですが。
 

 “ 美人は性格がいい ” が真であるとされるということは、徳への信仰が強力になっている可能性もあります。

 これは、生まれ持った外見的特長が、美人とされる特徴に合致していることが絶大な権威を持つ状態です。 

 格差が増大し、機械化した合理主義人、つまらない美人/イケメソ、判断者が増えているということです。 格差によってムラ社会は戦国化し、ポジション争いのために炎上やイジメが激化し、居るだけで角の立つ美人は無害になり目立たぬよう勤め、周囲のいうことに従わないと生き辛くなっているため、表向きは“いい人”が増えているという感じがしないでもありません。 同性間だけでなく、オスの闘争の原因にもなるため、相当面倒かもしれませんね。