改めて自己紹介します(長文です) | 新地球時代を生きよう!Dr.恭子の元気が出るブログ

新地球時代を生きよう!Dr.恭子の元気が出るブログ

スキルス胃癌で胃を全摘後も大好きな内視鏡を握っている内視鏡医です。
南米ボリビア に子連れ赴任、フランスで料理修業、現在は神人さん講演会で真実を学びながら、毎日を明るく元気に生きていく秘訣をブログで書いています。

先週末に参加したハナリンさんの情報発信講座で、沢山の“目覚めた”仲間たちに出会えて、そしてハナリンさんから『売りは自分❗️』という一番大切なことを教えて頂いたおかげで、アメブロを『“真実系”医師Dr.恭子@鎌倉山カウンセリングスペースしぃちゅうあん』に一新し、ブログを読んで下さる方が急に増えたので、今日は改めて自己紹介します。


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Dr.恭子こと私の本名は石井恭子です。医者になって27年が経ち、現在は神奈川県藤沢市の湘南ホスピタルで毎週火曜・木曜日に胃カメラと大腸カメラの検査と治療をしています。



飾り付けは全て私がやってます。明るく楽しい内視鏡室


もともと語学が好きで将来は通訳になりたいと思っていたのが、高校生の時に心療内科を知って医者になることを決めました。そして平成8年に久留米大学医学部を卒業し、九州大学医学部心療内科に入局しました。


九州大学心療内科は日本で初めて心療内科ができたところです。私が入局した当時はまだ心療内科をしている病院が少なくて、全国から重症の患者さんが沢山入院されていました。研修医の私にとって重症の患者さんを診るのは想像以上に大変なことで、とても太刀打ち出来ないと痛感しました。薬や行動療法などのテクニックより何より、まずは自分の人生経験を上げないことには心療内科医が務まらないなと思ったからです。


ちょうどその頃内視鏡を先輩Drから習う機会があり、初めてカメラを握った時に『これはモノになるな』という直感を感じ、九州を離れて千葉県鴨川市の亀田総合病院で内視鏡検査(特に大腸)のトレーニングを受けました。

大腸内視鏡検査はお尻からカメラを入れて、大腸の終点の盲腸まで挿入していきます。当時の亀田総合病院では、『盲腸まで3分で挿入できるようになる』と言われていて、実際にその技術を磨きました。その後、日本一の内視鏡件数をこなしていた横浜の松島クリニックでさらに腕を磨き、最終的に盲腸まで1分以内で挿入することが出来るようになりました。


しかしスピードばかり競う世界に疲れを感じて情熱を失いかけてた頃、離婚と母の死がダブルパンチでやって来て、それが人生リセットのタイミングでした。(自由ってなんだろう?)と考えていた時、外務省で医務官を募集している記事を見つけました。『これだ!』と直感が働き、好きな語学が生かして海外で暮らしたかった夢を叶えようと思ったのです。

医務官の試験にも受かって外務省に入省し、初のシングルマザー医務官として4歳の息子を連れて南米ボリビアへ赴任しました。2010年2月のことでした。


いきなりの海外暮らしで、それも子連れで、まず最初に探したのは住み込みのお手伝いさんでした。医務官の仕事は出張や時間外の仕事が多かったので、私が留守をしている時に息子のお世話をしてくれる人が必要だったからです。全てが初めてのことばかりで、それも慣れないスペイン語でやり通す体験は、これまで使って来なかった自分のパワーが一気に開花したかのようでした。




ボリビアで3年半過ごした後、キューバで医務官をしていた現在の夫と結婚して、夫の次の赴任地パリに行きました。

パリで一番やりたかったことは、料理を学ぶことでした。ボリビアは当時南米で最貧国と言われてましたが、豊かな大地にたくさんの野菜や穀物、果物が収穫されるので、食べることには困らない国でした。ところがある日、若いお母さんが赤ちゃんに哺乳瓶でコーラを飲ませているのを目の当たりにして、食の教育が必要だなと痛感したのです。


そしてパリのルコルドンブルーという料理学校へ入りました。世界中から現役の料理人や料理人を目指す若者が集まるインターナショナルな環境で、私はクラスでたった一人の日本人でした。コルドンブルーではシェフがフランス語を話し、通訳が英訳してましたが、クラスメイトとはフランス語で話すことが多かったです。(中国人や韓国人の友達とフランス語で話すなんて、今思うととてもシュールですが…笑)





クラスでトップ5の成績優秀者に選ばれるなど思いがけないご褒美を頂きながら、料理に邁進してました。料理のディプロムを取得して、お菓子のコースを始めて間もない時、胃の具合がどんどん悪くなり、急遽日本に戻って胃カメラを受けました。そして受けた診断がスキルス性胃癌でした。

自分の専門の癌だったこともあって、他人事のように冷静に受け止められたのが不幸中の幸いでした。そして2015年4月に胃を全摘する手術を受けました。その後再びパリに戻るつもりでいましたが、術後の後遺症がひどくてパリに戻るのは無理だなと諦めて、日本に再び拠点を戻すことにしました。


後遺症はなかなか落ち着かず、心折れることがしばしばありました。すると、『なぜ私は癌になったんだろう?』という疑問が頭から離れませんでした。頭では分かったつもりでも、心では納得出来なかったのです。そこで漢方や中医学、食養など、さまざまな観点からその原因を調べるべく、片っ端から本を読んだり勉強していきました。そうして最後に辿り着いたのが算命学でした。


算命学は中国古来の占星術ですが、なぜかその中にヒントがあるような気がしていました。どの世界でもその道の本流の先生がいます。何人かの人に算命学を習ったり学校にも通いましたが満足できず、最終的に辿り着いたのが野島算命学でした。野島先生はすでに他界されてましたが、先生が生前に講義されたDVDを送って頂きました。見れば見るほどもっと知りたくなって、最終的に3年半で718枚のDVDを見て算命学の勉強を終えました。


そのDVDを見終わる少し前に、私はある体験をしました。それは、(算命学でも私が癌になった理由が分からなかったな)とふと思った時、するすると記憶を手繰り寄せるかのように、『私は自分で癌になることを決めて来た』という記憶を思い出したのです。私にとって全てが腑に落ちた瞬間でした。


コロナ禍に突入して早急にワクチンが取り入れられた頃、(これは私は絶対に打っちゃダメだ。打ったら死んでしまう。)と直感で感じました。病院で「我先に!」とみんなが打ってる中で、「止めた方がいいよ」と水を差すようなことは言えず、また自分にとって良しとしないものを患者さんにも打てませんでした。


当時5ヶ所の病院で掛け持ちで内視鏡のバイトをしていましたが、病院によっては一時的に内視鏡検査を中止したところもありました。さらに私はワクチンを打っていないために、病院が内視鏡検査が再開してもしばらくお声がかからず干されたり、検査をした患者さんがコロナ陽性だったために私は濃厚接触者扱いとなり、やむなく仕事に行けなくなったこともありました。(バイトの身なので、その間は当然お給料は入りません。)


そんなふうに自分の身の回りの変化や世の中の動きを見て、(これは大きな罠に違いない、真実はどこにあるのだろう?)とTwitterやYouTubeなどで真実を知ろうと探しました。そして辿り着いたのがハナリンさんや笹原俊一さんでした。ハナリンさんの発信される情報を通して、『これが知りたかった!』と思える人達に繋がっていき、真実の情報がどんどん入るようになりました。


昨年の9/2からこのブログを始めたところ、私の人生経験を面白いと思ってくれる出版社があって、「これまでの経験を本にしませんか」とお声掛け頂いて、現在執筆中です。そして一度は挫折しかけた心療内科医としての役割や、“目覚めた人たち”と情報をシェアし合える場を作るべく、昨年秋に鎌倉山のてっぺんにカウンセリングスペースを設けました。



かなり長文になってしまいましたが、『Dr.恭子って何者だ?』って疑問にお答えすべく、私自身のことを書いてみました完了


これからは“目覚めた”人達と繋がりながら、この地球が全ての生きとし生けるものが共生し合い、慈しみ合い、尊び合える星へと変わっていく過程で、自分の役割を果たしていきたいなと思っています。




ウユニ塩湖