さてみなさんに質問ですが次の数字は何だと思いますか?
(1位)ブラジル 1,500,000
(2位)米国 1,204,000
(3位)ペルー 100,000
(4位)カナダ 98,000
(5位) オーストラリア 41,000
(6位)アルゼンチン 34,000
(7位)メキシコ 20,000
答えは世界に住んでいる日系人の数です。
日系人という言葉の定義は“日本以外の国に移住し当該国の国籍または永住権を取得した日本人、およびその子孫のこと”で現在約300万人以上存在すると推定されています。
建築家で言えば、日系2世のアメリカ人、ミノル・ヤマサキ、メキシコで言えばタロウ・ソリージャ、ブラジルで言えばルイ・オータケなどが真っ先に浮かんでくるかと思います。
我々日本人の先祖の方々が世界各地に移民し、その子孫たちが大部分を占めると思いますが上記数値に代表されるように南米には日系人がたくさんおられます。
そこで今回はメキシコをはじめとする南米の日系人の歴史、つまり日本人の移民の歴史について語ってみたいと思います。
千葉県の外房に御宿という場所があります。日本とメキシコの歴史の始まりを語るとき、この場所が非常に重要な歴史のきっかけであることがわかります。
江戸時代が始まったばかりの今から約400年前、当時スペインの領土であったフィリピンのマニラとの同じくスペイン植民地のメキシコ(当時新スペインと呼ばれていた)間でアジアの香料などを運ぶ定期船が出ていました。1609年、其の定期船が房総半島沖で沈没し、乗客300人が漂流していたところを御宿町の町民が必死に救助し、かつ統治していたとなり町の大多喜城城主からの手厚いおもてなしを受けたことから関係が始まります。
実は私の両親、親戚一同はこのあたりの御宿町、となりの大原町、大多喜町に住んでおります。自分が小さいころ、メキシコの大統領が町を訪れたとことをみんなが大騒ぎしていたことを微かな記憶として残っております。
2009年には日本メキシコ400周年記念の行事が盛大に催されましたがその起源は上記によります。
(メキシコのアカプルコ市と御宿町、クエルノバカ市と大多喜町は姉妹都市を提携しています。)
その後、乗客していたスペイン総督はロドリゴ.ビベロは家康を訪問し貿易関係を築こうとします。家康は派遣団をメキシコ、スペインに送り関係が本格化しするかと思われましたが日本国内でオランダ、イギリスによる反スペイン運動がおき、結局実現には至りませんでした。 そして1639年には200年以上続く鎖国となってしまいます。
ともかく、この時代に日本人が最初にメキシコに渡っておりますがあくまで一時的であり移民とはいえないかと思います。
本格的に日本人の移民が始まったのは明治になってからです。
当時の日本では農村部、都市部の困窮民の救済と急増する人口の問題が深刻となっており、その解消策として海外殖民が国家的事業として推進されていたようです。
最初の移民は明治元年のハワイ移民、その後のアメリカ移民ですが
米国の排日運動や黄禍論の嵐で移民先を南米に向けていきます。
当時明治政府は列強国との不平等条約を改正することに追われていた。ところが1888年にメキシコと日墨友好通商航海条約を結びます。これは日本にとって最初の完全平等条約でありメキシコが最初の友好国となります。
この流れの中、1897年に政府主導で初めての移民計画“榎本殖民団”が形成されメキシコのチアパス州の日本人殖民地建設のもと殖民団が派遣されます。 本来の目的は当時メキシコで大きな貿易の財源となっていたコーヒー栽培により殖民地の建設を行い集団移民をすることでした。
結局失敗に終わりますがこのメキシコ移民は政府の計画移民としてペルーに先立つこと2年、ブラジルよりも11年早い集団移民計画で南米ではメキシコが初めての集団移民の国です。
その後、メキシコの鉱山発掘や鉄道建設のための労働者として、日本人が多く移民してきますが劣悪な環境の下奴隷者同然として扱われていたようです。
移民の中にはメキシコを足場に条件が断然いいアメリカ合衆国へ転住を希望する者が後を絶たず、不法入国、あるいは国境をさまよう者も多く、1907年合衆国はメキシコからの入国を禁止しました。メキシコ移住はその後激減し、約10年で挫折しましたが、同年までに1万人以上がメキシコへ渡っています。
ちなみに、米国、メキシコ国境にティフアナ、その隣にメキシカリという市があります。ここには私はまだ訪問していませんが日系人の集団地域があるようです。
おそらく、彼らの祖先はメキシコに移民してから、アメリカに渡ろうとしたが出来ず、国境地域に住み着いた人たちだったのではないかと思われます。
現在はグアテマラ、エルサルバドル、ホンジュラスなど貧しい中米の国の人たちがメキシコ経由でアメリカに不法入国したり、国境付近でマフィアに利用されたり大きな社会問題となっておりますが、当時貧しかった日本人も同じ状況だったのだと思います。
次に始まる南米の殖民計画もそうですが日本を出る前は夢のような話を聞き、いざ来てみると奴隷そのものだったという感じだったようです。実際、当時経済的に発展していた中南米各国は労働力不足から新しい移民先を探していた背景があったようです。
(これは今のどの国でも同じようなことが起こっていますよね。)
また最初にメキシコ移民であるチアパス州に移住した榎本殖民団の方々ですが言葉も何も分からない中、現地のメキシコ人と協力し、日墨協働会社という共同組織を創設し公共工事などを通して殖民地経営を存続したほか、日本語の学校教育を現地のメキシコ人及び日系人子孫に実践しました。なかでも特筆すべきなのが彼らの手によって最初の日本語スペイン語の辞典、西和辞典が編集されたことです。
当時日本はスペイン語の入門書程度のものしかなく、移民してきた人たちは言語の壁にぶつかり、意思の疎通も思うにまかせず言語不通のまま異文化世界の中で開拓生活を余儀なくされました。何よりもスペイン語日本語辞典が求められていました。
チアパスの日本人移民は現地の人たちと必死にコミュニケーションをはかり、この一冊の辞書を作り上げたようで、この辞書はチアパスに眠る日系人の血と汗の結晶でぼろぼろになるまで使われた聖書のようなものだったと日系人の間で語り継がれているようです。
メキシコの重要な実業家で日系人であるメキシコヤクルト社長のカーロス春日さんという方がおられます。
チアパス州はメキシコの中でも極めて貧しい州で政府の援助が行き届かない場所なのですが
この春日さんはこの歴史を良く理解しているために毎年、チアパス州の教育のために多大な寄付をされております。
日本は次にペルーに目を向けます。
当時のペルーは独立国とはいえ、スペイン人が支配する貧富の差の激しい階級社会でした。そのペルーでは奴隷制度廃止や中国人移民の禁止で代替労働者を求めており1899年、第一回の日本人移民790人が農業労働者としてペルーに渡りました。
こちらもサトウキビ農園の過酷な労働条件で多くの死者と多数の離農者を出し計画は上手く行かなかったようです。
移民者の一部は離農し、一部はアンデスを越え、ボリビアの奥アマゾン源流地帯へゴム園労働者として集団転住しました。(この1899年の集団転住が日本人のボリビア移住の起源となっています。)
その後、ペルーには1923年まで出稼ぎ移民として約2万1,000人が渡りました。その後も移民は衰えることなく、自由移民として多くの者(1万2,000人)が渡っていきました。ペルー移民の中にはブラジル、ボリビア、チリ、アルゼンチンへ転住する者も多かったようです。
ペルーにいきますと前大統領の藤森さんを始め本当に日本人の名前が多いことに驚かされます。ただ、他の南米もそうですがみんな親日派です。日本人は本当に勤勉で良く働くいいイメージが根強く残っています。
また、メキシコ、ペルー移民は出稼ぎ労働者の独身者がほとんどで彼らは現地の女性と結婚し住み着くケースが多かったようです。
次のブラジル移民は家族同伴の集団移民だったので独身はペルーに家族持ちはブラジルにと言われていたとのことです。
ちょっと長くなりましたので次のブラジル移民、パラグアイ移民、アルゼンチン移民に関しまして次回にお話させていただきたいと思いますが中南米への移住はメキシコの1897年から始まりまして太平洋戦争の勃発で移住が中断する1941年まで続きます。その間に日本から中南米に移住した総数は約25万5,000人と言われています。ブラジルへ18万9,000人、ペルーへ3万3,000人、メキシコへ1万5,000人・・・そして最後のパラグアイへは700人で、非常に興味深い歴史です。
それでは次回も引き続き移民の歴史について語らさせていただきたいと思いますのでどうぞお楽しみに!
(1位)ブラジル 1,500,000
(2位)米国 1,204,000
(3位)ペルー 100,000
(4位)カナダ 98,000
(5位) オーストラリア 41,000
(6位)アルゼンチン 34,000
(7位)メキシコ 20,000
答えは世界に住んでいる日系人の数です。
日系人という言葉の定義は“日本以外の国に移住し当該国の国籍または永住権を取得した日本人、およびその子孫のこと”で現在約300万人以上存在すると推定されています。
建築家で言えば、日系2世のアメリカ人、ミノル・ヤマサキ、メキシコで言えばタロウ・ソリージャ、ブラジルで言えばルイ・オータケなどが真っ先に浮かんでくるかと思います。
我々日本人の先祖の方々が世界各地に移民し、その子孫たちが大部分を占めると思いますが上記数値に代表されるように南米には日系人がたくさんおられます。
そこで今回はメキシコをはじめとする南米の日系人の歴史、つまり日本人の移民の歴史について語ってみたいと思います。
千葉県の外房に御宿という場所があります。日本とメキシコの歴史の始まりを語るとき、この場所が非常に重要な歴史のきっかけであることがわかります。
江戸時代が始まったばかりの今から約400年前、当時スペインの領土であったフィリピンのマニラとの同じくスペイン植民地のメキシコ(当時新スペインと呼ばれていた)間でアジアの香料などを運ぶ定期船が出ていました。1609年、其の定期船が房総半島沖で沈没し、乗客300人が漂流していたところを御宿町の町民が必死に救助し、かつ統治していたとなり町の大多喜城城主からの手厚いおもてなしを受けたことから関係が始まります。
実は私の両親、親戚一同はこのあたりの御宿町、となりの大原町、大多喜町に住んでおります。自分が小さいころ、メキシコの大統領が町を訪れたとことをみんなが大騒ぎしていたことを微かな記憶として残っております。
2009年には日本メキシコ400周年記念の行事が盛大に催されましたがその起源は上記によります。
(メキシコのアカプルコ市と御宿町、クエルノバカ市と大多喜町は姉妹都市を提携しています。)
その後、乗客していたスペイン総督はロドリゴ.ビベロは家康を訪問し貿易関係を築こうとします。家康は派遣団をメキシコ、スペインに送り関係が本格化しするかと思われましたが日本国内でオランダ、イギリスによる反スペイン運動がおき、結局実現には至りませんでした。 そして1639年には200年以上続く鎖国となってしまいます。
ともかく、この時代に日本人が最初にメキシコに渡っておりますがあくまで一時的であり移民とはいえないかと思います。
本格的に日本人の移民が始まったのは明治になってからです。
当時の日本では農村部、都市部の困窮民の救済と急増する人口の問題が深刻となっており、その解消策として海外殖民が国家的事業として推進されていたようです。
最初の移民は明治元年のハワイ移民、その後のアメリカ移民ですが
米国の排日運動や黄禍論の嵐で移民先を南米に向けていきます。
当時明治政府は列強国との不平等条約を改正することに追われていた。ところが1888年にメキシコと日墨友好通商航海条約を結びます。これは日本にとって最初の完全平等条約でありメキシコが最初の友好国となります。
この流れの中、1897年に政府主導で初めての移民計画“榎本殖民団”が形成されメキシコのチアパス州の日本人殖民地建設のもと殖民団が派遣されます。 本来の目的は当時メキシコで大きな貿易の財源となっていたコーヒー栽培により殖民地の建設を行い集団移民をすることでした。
結局失敗に終わりますがこのメキシコ移民は政府の計画移民としてペルーに先立つこと2年、ブラジルよりも11年早い集団移民計画で南米ではメキシコが初めての集団移民の国です。
その後、メキシコの鉱山発掘や鉄道建設のための労働者として、日本人が多く移民してきますが劣悪な環境の下奴隷者同然として扱われていたようです。
移民の中にはメキシコを足場に条件が断然いいアメリカ合衆国へ転住を希望する者が後を絶たず、不法入国、あるいは国境をさまよう者も多く、1907年合衆国はメキシコからの入国を禁止しました。メキシコ移住はその後激減し、約10年で挫折しましたが、同年までに1万人以上がメキシコへ渡っています。
ちなみに、米国、メキシコ国境にティフアナ、その隣にメキシカリという市があります。ここには私はまだ訪問していませんが日系人の集団地域があるようです。
おそらく、彼らの祖先はメキシコに移民してから、アメリカに渡ろうとしたが出来ず、国境地域に住み着いた人たちだったのではないかと思われます。
現在はグアテマラ、エルサルバドル、ホンジュラスなど貧しい中米の国の人たちがメキシコ経由でアメリカに不法入国したり、国境付近でマフィアに利用されたり大きな社会問題となっておりますが、当時貧しかった日本人も同じ状況だったのだと思います。
次に始まる南米の殖民計画もそうですが日本を出る前は夢のような話を聞き、いざ来てみると奴隷そのものだったという感じだったようです。実際、当時経済的に発展していた中南米各国は労働力不足から新しい移民先を探していた背景があったようです。
(これは今のどの国でも同じようなことが起こっていますよね。)
また最初にメキシコ移民であるチアパス州に移住した榎本殖民団の方々ですが言葉も何も分からない中、現地のメキシコ人と協力し、日墨協働会社という共同組織を創設し公共工事などを通して殖民地経営を存続したほか、日本語の学校教育を現地のメキシコ人及び日系人子孫に実践しました。なかでも特筆すべきなのが彼らの手によって最初の日本語スペイン語の辞典、西和辞典が編集されたことです。
当時日本はスペイン語の入門書程度のものしかなく、移民してきた人たちは言語の壁にぶつかり、意思の疎通も思うにまかせず言語不通のまま異文化世界の中で開拓生活を余儀なくされました。何よりもスペイン語日本語辞典が求められていました。
チアパスの日本人移民は現地の人たちと必死にコミュニケーションをはかり、この一冊の辞書を作り上げたようで、この辞書はチアパスに眠る日系人の血と汗の結晶でぼろぼろになるまで使われた聖書のようなものだったと日系人の間で語り継がれているようです。
メキシコの重要な実業家で日系人であるメキシコヤクルト社長のカーロス春日さんという方がおられます。
チアパス州はメキシコの中でも極めて貧しい州で政府の援助が行き届かない場所なのですが
この春日さんはこの歴史を良く理解しているために毎年、チアパス州の教育のために多大な寄付をされております。
日本は次にペルーに目を向けます。
当時のペルーは独立国とはいえ、スペイン人が支配する貧富の差の激しい階級社会でした。そのペルーでは奴隷制度廃止や中国人移民の禁止で代替労働者を求めており1899年、第一回の日本人移民790人が農業労働者としてペルーに渡りました。
こちらもサトウキビ農園の過酷な労働条件で多くの死者と多数の離農者を出し計画は上手く行かなかったようです。
移民者の一部は離農し、一部はアンデスを越え、ボリビアの奥アマゾン源流地帯へゴム園労働者として集団転住しました。(この1899年の集団転住が日本人のボリビア移住の起源となっています。)
その後、ペルーには1923年まで出稼ぎ移民として約2万1,000人が渡りました。その後も移民は衰えることなく、自由移民として多くの者(1万2,000人)が渡っていきました。ペルー移民の中にはブラジル、ボリビア、チリ、アルゼンチンへ転住する者も多かったようです。
ペルーにいきますと前大統領の藤森さんを始め本当に日本人の名前が多いことに驚かされます。ただ、他の南米もそうですがみんな親日派です。日本人は本当に勤勉で良く働くいいイメージが根強く残っています。
また、メキシコ、ペルー移民は出稼ぎ労働者の独身者がほとんどで彼らは現地の女性と結婚し住み着くケースが多かったようです。
次のブラジル移民は家族同伴の集団移民だったので独身はペルーに家族持ちはブラジルにと言われていたとのことです。
ちょっと長くなりましたので次のブラジル移民、パラグアイ移民、アルゼンチン移民に関しまして次回にお話させていただきたいと思いますが中南米への移住はメキシコの1897年から始まりまして太平洋戦争の勃発で移住が中断する1941年まで続きます。その間に日本から中南米に移住した総数は約25万5,000人と言われています。ブラジルへ18万9,000人、ペルーへ3万3,000人、メキシコへ1万5,000人・・・そして最後のパラグアイへは700人で、非常に興味深い歴史です。
それでは次回も引き続き移民の歴史について語らさせていただきたいと思いますのでどうぞお楽しみに!