珍しく、出張中にある程度ちゃんとした記事(笑)を書いてみる。
2020年4月2日、この出張最初の休みで訪れた石橋記念公園。わたくしの訪問ルートだと公園に入って一番初めに目にしたものをご紹介。
正確にいえば、これ見て「あっ、着いたんや」と気づいたっていう(笑)。
はい、コチラ。
パッと見ではなんじゃこれ?だったが、
刻まれている文字と解説看板を見て
ああ、なるほど、と。
そう、これはいにしえの水位計なのだそうだ。
詳しくは看板を・・・って、え?読む気がしない?
仕方ないなあ、では文字に起こして進ぜよう。
石造の「水位計」について (2011年3月)
石橋記念公園の周辺地域一帯は、元禄14年(1701)幕府の許可を得て造成された埋立地で、抱真院などの寺社のほか重富島津家、今和泉島津家の下屋敷や、船着場などがあった。また稲荷川河口は岩永三五郎が鹿児島で最初に石橋を架けた地である(3連アーチの永安橋(1842年)など)。天保期(1830~1843)の絵図では、旧海岸沿いの行屋堀に小船の、弁天社前に大船の船溜りがあった。
行屋堀には、境橋、汐見橋など5つの石橋が架けられていたが、鉄道建設が始まり明治33年(1900)に埋め立てられ、今は市道になっている。
この市道に接した枝元チヨ氏(故人)の住宅地(当時の境橋、汐見橋付近)に、この「水位計」と思われる石造物が置かれていた。現住宅所有者白男川眞理子氏の話によると、祖父が行屋堀埋立の際この「石造物」を自宅庭に移転させたものと思われる。
①石造りの水位計(呼称は不明)の遺構は極めて珍しい。韓国ソウルの「水標橋」や、武庫川の水位計と同様に川中に立てて水位を示した標柱である。行屋堀にあった水位計であろう。時代は木橋から石橋に架け替えられた江戸末期頃と考える。
(県立短期大学生活科学科揚村固教授〈市文化課佐々木主幹、上村指導主事同行〉)
②上町周辺で切り出した反田土石(たんたどいし)製の丈尺柱の残欠であり、19世紀前半のものと思われる。一丈、九尺と刻まれた文字から、潮位もしくは水位を具体的に人々に示したものであろう。
(郷土史家で鹿児島の石文化を研究している平田信芳氏)
③行屋堀か、稲荷川境界水域にあったおそらく「水位計」ではないかと思われる。この周辺はかつての軍港であり、水位を計測する武家がこれを管理していたのではなかろうか。この石造物があった宅地の場所は、古地図で見ると武家屋敷となっている。初めて目にしたが貴重なものである。
(郷土史や地名方言などを研究している豊増哲雄氏)
やるんじゃなかった!めんどくせぇ~(爆)。
それにしても、江戸末期頃の水位計とか、
これが川中に立っている様子は、凄く興味があるなあ。タイムマシンで過去に飛びたいですわ(笑)。
最後に、看板入りの全景。
これが、石橋記念公園がわたくしにくれた挨拶だった。丁重なご挨拶、痛み入ります(笑)。
以上。