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『 最後の仕事 』
第十章 午後の光
午後四時を回るころ、山の影が屋根の端から降りてきた。黒田は空を見上げる。山の影が屋根へ届くまでの時間を読んでいる。仲谷はレンズを替えず、森川の顔を見る。森川が頷くと、三村が香盤表を折ってポケットへ入れる。
最後の外観を撮る前、森川は一度だけ深く息を吐いた。疲れがある。だが、それを数えるより先に、画面の中で何を残すかを考えている。
午後の撮影では、光が大きく変わる。
朝は柔らかな光だった。
昼は強かった。
夕方に近づくと、山の影が旅館へ伸びてくる。
黒田は何度も外へ出て、空と建物と川を順に見た。戻ってくるたび、光の変化を確かめている。
黒田が空を見上げた。
「あと三十分ぐらいやな」
森川も屋根へ目をやった。
「この光が終わる前に、外観を先に撮ろう」
三村が香盤表を確認する。
「予定より光が先に終わる」
三村は香盤表の順番をすぐに書き換えた。光が終わる前に、外観を先へ回す。
山科が主人へ伝える。
「今から外観を先に撮ります」
皆が外へ出た。カメラ、三脚、ハレパネが運ばれ、モモちゃんと主人もそれぞれの位置につく。
仲谷がカメラを構える。
森川はモニターへ目を戻し、さっきまでとは違う表情を確かめた。
建物の屋根に夕方の光が当たっている。
川は少し暗い。
その明暗がちょうどいい。
「回そう」
録画が始まる。
数秒。
仲谷が録画を止める。
「風で木が揺れた瞬間、屋根の上に影が入った」
二回目。
風が止まる。
三回目。
今度は鳥が画面を横切った。
「今日は忙しいな」
森川は、予定にない鳥まで現場へ入ってきたことを面白がった。
四回目。
きれいに撮れた。
そのあと、旅館の廊下でモモちゃんのカットを撮った。窓の外の緑を背に、着物の青と横顔を画へ収める。
仲谷が録画を始めると、黒田が反射板の角度を合わせた。モモちゃんが静かに顔を上げ、目の中に小さな光が入る。仲谷はそのまま数秒、カメラを送り続けた。
「止め」
仲谷が録画を止める。
「俺の光や」
黒田が振り返った。
「まだ、やなくて、今や」
森川は一度だけ頷いた。
それ以上は言わない。
その日の昼過ぎ、黒田の携帯電話が鳴った。
家からだ。
「うん。今日、貴船や。昔の連中と一緒や」
黒田は少し離れた場所へ歩いた。
「味噌の仕込みは?」
相手の話を聞きながら、川を見ている。
「それは帰ってから見る。明日の朝には戻る」
しばらくして、黒田の口元に笑いが浮かんだ。だが、それもすぐに消えた。
「仕事? まあ、そんなもんや」
電話を切る。
「家からですか?」
「店や」
「撮影も待ってくれませんよ」
黒田は携帯をポケットへしまった。
「谷ヤンは家、連絡したか?」
「昔の仲間と仕事してるって」
「仕事って言うたんか」
黒田は何か言いかけたように口を開き、それから黙った。仲谷はカメラへ目を落とした。
「仕事ですから」
その言葉を、黒田は何も言わずに聞いた。
午後の休憩で、モモちゃんは店の話をした。
「最近、若い子が着物を着てくれるようになったんよ」
「昔は年配の人ばっかりやったやろ」
「そう。でも今は写真を撮るために借りる子も多い」
森川は、今日の撮影そのものが着物の宣伝にもなると受け取る。
モモちゃんは、それも仕事のうちだというように答えた。
「私ら、仕事しかしてこなかったやろ」
「じゃあ何してきた?」
「仕事して、酒飲んで、また仕事」
モモちゃんは自分の袖を見た。
「この着物、色がええやろ」
「カメラで見るともっとええ」
「それ、ちゃんと撮ってくれる?」
「店の名前、出してな」
「森川さん、そこは約束して」
「仕事やから、ええ画なら出す」
「だから信用できるんよ」
森川はすぐには返事をしなかった。
午後四時を過ぎると、全員の疲れが見えてきた。
それでも、誰も弱音を吐かない。
弱音を吐かないというより、言う必要がない。
疲れたら休む。
休んだら戻る。
それが現場だ。
黒田が立ち上がった。
「あと一本やろ」
三村は香盤表を見た。誰をどこへ動かすか、その先まで考えている。
仲谷がカメラを持ち上げる。森川も立ち上がり、「最後、川や」と言うと、皆が自然に外へ向かった。
山の空気は少し冷たくなっている。
昼間の暑さが消え、川の音が近く感じられる。
森川は一度だけ振り返った。
旅館の灯りが、まだついていない。
「これ、最後に灯りがついたところも撮れるな」
三村は紙を確かめ、次の段取りへ視線を移した。
「三分でいける?」
「じゃあ、やろう」
主人が玄関へ立ち、モモちゃんもその横へ並んだ。黒田は反射板を畳んで脇へ置く。もう出番はない。仲谷がカメラを構えたところで、玄関の灯りが一つついた。
旅館の玄関が暗い山の中で浮かび上がる。
森川はモニターを見る。
「回そう」
録画が始まる。川の音、虫の声、遠くの人の話し声。その中で灯りがつき、暗い山の中に旅館が浮かび上がる。その画をしばらく残した。
「止め」
録画が止まる。
仲谷がカメラを下ろした。
「今日はよく働いたな、私ら」
誰もそれ以上は言わない。
そして機材を片づけた。
撤収の途中、竹森が一人で玄関先に立っていた。
森川が隣へ行く。
「いや、何でもない」
「プロデューサーが何でもない顔するときは、何かある」
「昔からお前は嫌なとこ見てるな」
「今日、どうやった?」
「仕事」
森川は旅館の中を見た。
「ええ仕事やった」
「ただ、最後まで気を抜いたらあかん」
「それもやけど、現場は最後の一秒まで現場や」
竹森は頷いた。
森川も笑う。
「でも、頭の中で画を考えるのは変わらん」
「黒ちゃんも光を見る」
「谷ヤンもレンズを見る」
「俺は金を動かす」
「それだけは昔からや」
二人は川を見た。
森川は竹森を見た。
「明日には忘れてる」
「昔の仕事をな」
森川はそれ以上聞かない。
玄関の奥で灯りが一つつき、少し遅れて二つ目がついた。川面に細い筋が伸びた。
川の上に、細い光が揺れている。
森川は川から目を離し、玄関へ顔を向けた。灯りが入り始めたなら、今日の終わりを画に残す時間だ。
森川は、そろそろ戻る時間だと皆に促した。
二人は玄関へ戻る。外で続けていた話より、まだ残っている仕事の方が二人には近かった。
そのとき、廊下の壁に貼られた香盤表が風で少し浮いた。
山科が気づいて、端を押さえた。
「これ、剥がれそうです」
「テープ、もう一本」
山科が貼り直す。
紙は静かになる。
