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『 しあわせの素顔 』
第八章 それぞれのしあわせの素顔
それぞれの決意と別れから、数か月が過ぎた。
季節は穏やかな春を迎え、街を彩る街路樹の葉が柔らかい陽光に照らされてキラキラと輝いていた。
街を行き交う人々の装いも軽やかになり、それぞれの新しい季節が静かに動き出している。
デスクの上に置かれた一枚のL版写真。
そこには、かつて満面の笑顔で寄り添い、無邪気にカメラを見つめる平山和彦と村岡奈美の姿があった。
その写真は今や哀愁の象徴ではなく、二人が確かに互いを慈しみ、支え合って歩んだかけがえのない青春の証として、静かにたたずんでいた。
そして今、二人が選んだそれぞれの場所には、自分自身の力で掴み取った新しい時が刻まれている。
◇
都内の印刷会社、DX・システム管理室。
キーボードを叩くテンポの良い音が室内に心地よく響いていた。
モニターに向かう奈美の表情には、かつてのような焦りや数字にすがるような硬さはどこにもない。
データベースの構築を手際よくこなし、複雑なエラーログを解析する奈美の表情には、仕事への自信が戻りつつあった。
ただ、結婚式場からの案内メールや二人で選んだ家具の写真が目に入ると、指が止まることがある。
寂しさが消えたわけではない。
失った未来を惜しみながらも、目の前の仕事に向き合い、自分の力で一日を終える。
その積み重ねが、少しずつ奈美の支えになっていた。
「村岡さん、例のシステム移行の仕様書、チェック終わったよ!」
「ありがとうございます、内田さん! すぐ確認しますね」
声をかけられて振り向いた奈美は、晴れやかな笑顔を見せた。
部屋の片隅では、内田と千佳が資料を覗き込みながら軽口を叩き合っている。
二人の距離は、あの日を境に急に縮まったわけではない。
千佳は自分の行動を謝ったあとも、内田と顔を合わせるたびに気まずさを感じていた。
内田も、すぐに何事もなかったようには振る舞えなかった。
それでも、仕事の相談を重ね、少しずつ言葉を交わせるようになった。
今の笑い声は、嫉妬が消えたからではなく、嫉妬に振り回された自分を認め、相手を一人の人間として見直そうとした、その先に生まれたものだった。
「ちょっと二人とも、仕事中にイチャイチャしないの」
隣の席から京子が呆れ顔で冷かすと、千佳が少し頬を赤くして「イチャイチャなんてしてません!」と言い返し、室内には弾けるような笑い声が広がった。
奈美はその温かな空気の中でそっと胸を撫で下ろし、窓の外の青空を見上げた。
完璧に計算されたレールの上の幸せではなく、失敗や傷つきを経て手に入れたこの愛おしい日常こそが、今の自分を支えているのだと心から実感していた。
◇
東日本出版のオフィスでは、受話器を肩に挟みながら精力的に交渉をまとめている修治の姿があった。
「ええ、その件でしたらこちらで調整いたします。はい、任せてください!」
ハキハキとした声で電話を切り、満足そうに息を吐く修治。
かつて「自分は流されて生きている」と諦めかけていた男の顔からは、迷いが消えていた。
妹や和彦が自分の夢や選択に向き合う姿を目の当たりにし、修治自身もまた、家族を守る自分の仕事と人生に誇りを持つようになっていたのだ。
仕事から帰った修治が居間に入ると、容子がいつものように液晶タブレットに向かって夢中でペンを走らせていた。
画面に描かれているのは、鮮やかな黄色のレモン。
たまたま自分で買い物に行ったときに買ってくる果物をデッサンするのが日課だったが、ここ最近、彼女が描く絵はなぜか黄色のレモンばかりになっていた。
本人も気づいていません。
修治はそれを見つめ、「また描いてるのか」と苦笑いしながら居間に戻ろうとした。
しかし、ふと足を止め、容子の手元と買い物袋に残ったレモンを交互に見比べた。
「……この間から、お前レモンばっかり描いてるが……お前、ひょっとすると、これか?」
修治は、自分の大きなお腹に両手を当てると、まあるく円を描くように撫でてみせた。
容子は「あなたったら何言ってるのよ」と言いかけたが、次の瞬間、ハッと息を呑み、何か思い当たるような顔になった。
そういえば、ここ最近の体の変化、無意識に酸っぱいレモンを求めていたこと――。
「……えっ。まさか……」
「おい、明日病院行ってこいよ!」
二人は顔を見合わせた。
次の瞬間、二人の顔が弾けそうなほど「できた!」という歓喜の表情に変わり、溢れんばかりの笑顔が広がっていった。
◇
そして、鮮やかなスタジオの照明が焚かれた撮影現場。
「ライティング、もう少し左を柔らかく! 被写体の息遣いが伝わるように影を残してくれ!」
プロカメラマン・立原正規のスタジオ。
あの日、吉野で泥臭い覚悟を決めた和彦は、立原の扉を叩き、厳しい弟子入りを果たしていた。
連日早朝から機材を担いで走り回り、厳しい叱責に晒されながらも、必死でプロの技術と視線を身体に叩き込んできた。
今では立原から「お前の目は信用できる」と現場を任されるまでになっていた和彦の額には汗が浮かび、一眼レフのファインダーを覗き込むその眼差しには、確かなプロとしての強い矜持が宿っている。
首から下げられているのは、あの日、奈美の背中のぬくもりとともに託された、亡き奈美の父の一眼レフカメラ。
そして傍らの機材ケースには、居酒屋「吉野」の大将から託されたレンズたちが整然と並んでいる。
下積みの日々は決して華やかではない。
しかし、自分で選んだ荒波を自分の足で踏みしめているという実感が、和彦を力強く支えていた。
彼が切り取るポートレートは、人間の泥臭さと美しさを同時に映し出し、業界内でも徐々に注目を集め始めていた。
ふと撮影の合間、和彦はスタジオの窓から見える空を見上げた。
商店街の夕陽、居酒屋「吉野」の暖簾と大将夫婦の大きな笑顔、修治と酌み交わした酒、立原の厳しい叱責、そして――あの夜、決して振り返らずに受け止めた奈美の最後の叫び。
(頑張れ!! ヒラヤマカズヒコ!!)
胸の奥で、今もあの愛おしい声がリフレインする。
和彦は深く息を吸い込み、固く握りしめたカメラを再び構えた。
人生における「しあわせの素顔」とは、一体何なのだろうか。
それは、人生の中で何度か訪れる祝福や記念日に、満面の笑みで見せる単なる「喜びの顔」のことではないのかもしれない。
友人、夫婦、親子、そして一度は道を分かち合った大切な人――どんな関係であれ、互いの存在を胸に抱き、自分自身の道で逃げずに挑み、切磋琢磨しているその瞬間にこそ、人間は最も泥臭く、美しく、誇らしい表情を見せる。
それこそが、それぞれの胸の中に宿る、偽りのない「しあわせの素顔」なのだ。
ファインダーの向こう側、新しく差し込む春の光の中へ向かって、和彦のシャッター音が力強く、晴れやかに響き渡った。
(終わり)
