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『 しあわせの素顔 』
第七章 背中あわせの温もりと約束
夜の街灯の下、二人の影がアスファルトの上へ長く伸びていた。
修治の部屋を出てから、二人はしばらく無言のまま並んで歩いていた。
夜風が冷たく頬を撫でていく。
さっきまで同じ家にいたのに、二人の間には、もう以前とは違う距離があった。
「……さっきの話、本当にいいの?」と奈美が尋ねた。「別々に歩くって決めたこと」
「いい、とは言い切れないよ。君と離れるのはつらい。でも、つらいからって、君に待っていてほしいとは言えない。僕は自分の夢を選ぶとき、君と一緒に考える責任から逃げた。今度は、君の選択も尊重したい」
「私も、あなたの夢を応援することを、あなたの隣にいることと同じだと思い込んでいたのかもしれない。自分が何を望んでいるのか、ちゃんと考えたいの」
「うん。僕も、写真で生きていけるかどうかだけじゃなく、誰かと人生を歩くってどういうことなのか、考え直すよ」
二人は足を止めた。気持ちが消えたわけではない。
それでも、愛情だけを理由に、問題を先送りして元の場所へ戻ることはしない。
そのことを、二人とも分かっていた。
「……平山さんって言わなきゃいけないかしら」
奈美がぽつりと呟いた。
「カズでいいよ」
「じゃあ、もうしばらくカズって呼ぶわね」
「ああ」
和彦は抱えていた修治の古い革バッグのファスナーをゆっくりと開けた。
中に収められていたのは、重厚で使い込まれた一台の機械式一眼レフカメラだった。
革のケースから漂う油と金属の匂いに、どこか懐かしい温もりが宿っている。
「あっ……このカメラ……」
「知ってるのか?」
「お父さんの……生前、愛用してたカメラだわ」
「……これ、貰えないよ。返してくる」
和彦が踵を返しようとした瞬間、奈美はその腕を必死の力で掴んだ。
「カズ、お願いだから持って行って! お父さんもきっと喜ぶから……!」
「……」
「カズ、うしろ向いて」
「えっ?」
「いいから、うしろ向いて」
和彦が戸惑いながらも背を向けると、奈美はその大きな背中に、自分の背中をぴったりと押し当てた。
衣服を通り抜けて、互いの体温がじんわりと伝わってくる。
「……あったかいなあ、カズの背中」
「奈美……」
「このまま静かにずっとしていたいな。……あの夜、ぶったりしてごめんね。痛かった?」
「そりゃ痛かったさ」
「本当にごめんなさい」
「いいよ」
「……はやく見つけるんだよ、いい人」
「……ああ」
「今度は、結婚延ばさないようにね」
「ああ」
「やだ、あたし何言ってるんだろ……」
「奈美……」
「カズ、絶対に振り返らないって約束して」
「?」
「約束して!」
「……ああ」
「じゃあ、このまま前を向いて歩いて。振り向かないで、ずっと歩いていくの」
「……わかった」
二人はそっと背中を離した。
和彦が前を向いて歩き始めると、奈美はすぐに振り返った。
和彦は約束を守り、前だけを見つめて一歩一歩踏みしめるように歩いていた。
二人の距離が、少しずつ、けれど確実に離れていく。
たまらず和彦が振り向こうと動きを止めた、その瞬間――
「カズ、振り向いちゃダメ!!」
奈美の悲痛で力強い叫びが、夜の静寂を鮮やかに切り裂いた。
和彦の目から、溜め込んでいた大きな涙が溢れ出し、頬を伝って落ちた。
だが、彼は約束通り決して振り返らなかった。
溢れ出る涙を拭おうともせず、一眼レフをしっかりと抱きしめ、ただ前へ前へと歩き続けた。
立ち尽くす奈美は、小さくなっていく背中に向かって、全存在を絞り出すように叫んだ。
「頑張れ!! ヒラヤマカズヒコ!!」
そして、消え入るような声で呟いた。
「……頑張れ、ムラオカナミ」
やがて夜の闇の中に消えていった和彦の姿へ向かって大きく手を振ると、奈美はくるりと向きを変え、涙をぐっと拭って自分の足で力強く走り出した。
◇
数日後。
和彦は引き寄せられるように居酒屋「吉野」の暖簾をくぐっていた。
開店前の静まり返った店内で、大将が一人カウンターで古いレンズを拭いていた。
和彦が手にした奈美の父のカメラと、そのすっきりと吹き切れた表情を見た大将は、何も言わずに力強い手で和彦の肩をガシッと掴んだ。
「……二人でちゃんと、ケジメつけてきたんだな」
大将の低く響く言葉に、和彦は静かに深く頷いた。
二人が別れる選択をしたこと、そしてお互いの足で歩き出す約束をしたことを察した大将の目は、どこまでも温かかった。
「男が良いツラになったな」
奥から出てきた女将さんも、目頭を湿らせながら温かいお茶を出してくれた。
「和彦さん、うちの息子の部屋にあるレンズや機材、好きなだけ持っていってお使い。このカメラも、あなたが持っているからこそ光るんだよ。……その彼女さんの選択も、あんたの選択も、二人で選んだんなら間違いじゃないんだからね」
「親父さん、女将さん……僕、自分の足で一から歩き出します。逃げるんじゃなく、自分の写真でプロとして生きていきます」
「おう! 苦しくなったら、いつでも帰ってこい。美味い酒とマグロを用意して待ってるからな」
大将の包み込むような笑顔と力強い言葉に背中を押され、和彦の胸の奥にあった不安の波は、静かに、そして確かな覚悟へと変わっていった。
