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『 影を踏む者たちの映画館 』
第六章
佐伯が妹の話をしたのは、雑居ビルの狭い屋上だった。
初夏の風はまだ冷たく、ビルとビルのすき間を吹き抜けてくるたびに、私たちのスーツの袖を小さくはためかせた。
佐伯はサビの浮いたフェンスにもたれかかり、禁煙マークのすぐ横で煙草に火をつけた。
「二十四だった」
紫色の煙を空へ吐き出しながら、唐突にそう言った。
「妹さんか?」
「ああ」
佐伯は遠くの高速道路の流れを見つめていた。
「最後に、ひでえ喧嘩をした」
「何で?」
「あいつが、せっかく入った会社を半年で辞めるって言い出したからだ。理由を聞いても『合わないから』の一点張りでな。俺は激怒した。親父たちが苦労して学費を出したのに何考えてんだって。あいつは泣きながら『お兄ちゃんには関係ない、私の人生は自分で決める』って叫んだ」
「それで?」
「『じゃあ勝手にしろ、もうお前の顔なんて見たくない』って突き放した」
風が吹き抜け、煙草の灰がパラパラと散った。
「その三日後に、アパートの階段から落ちて死んだ。酒を飲んでいたらしい」
俺は何も言えなかった。喉が干からびていた。
「最初に作ったモデルは、ひどいもんだったよ」
佐伯は自嘲気味に笑った。 「顔の骨格も少し違ってたし、声のトーンも高すぎた」 「今は?」 「完璧だ。あいつが怒った時の声の裏返り方まで再現できてる」 「……本人だと思うか?」 「思うわけないだろ」
佐伯の返事は、あまりにも早かった。迷いのかけらもなかった。
「じゃあ、どうして毎晩毎晩、あの画面に向かい続けるんだ」
佐伯は煙草のフィルターを強く噛み締め、しばらく、濁った空を見上げていた。
「……もう一度、喧嘩がしたいんだよ」
「……喧嘩?」
「謝りたいんじゃないんだ」
佐伯の瞳に、暗い炎が宿っていた。
「謝って『いいよ』なんて言われたら、そこですべてが終わってしまうだろ。俺は……あいつとの時間を終わらせたくないんだ」
その言葉を聞いたとき、私は佐伯の顔を直視できなかった。
そこには、敏腕のITベンチャー社長の顔も、大学時代の自信に満ちた演出家の顔もなかった。ただ、妹に投げつけた最後の暴言を取り消すこともできず、永遠に過去の暗闇で立ち尽くしている、哀れな一人の兄がいるだけだった。
「お前はどうなんだよ、桐生」
佐伯が低く尋ねてきた。
「何がだ」
「あかねだよ。偽物だって分かってるんだろ?」
「……分かってるよ」
「じゃあ、なんで毎日会いに来る?」
「……分からない」
「俺と同じだよ」
佐伯は吸い殻をポータブル灰皿に押し込み、背を向けた。
「世の中、正気で生きていられる奴ばかりじゃないんだよ」
鉄のドアが重い音を立てて閉まり、私は屋上に一人取り残された。
ポケットの中で、携帯電話がブブッと小さく震えた。画面を見ると、画面の中のあかねから自動送信されたメッセージが表示されていた。
『今夜も、来てくれる?』
私はその青光りする画面を、静かにポケットの奥へと押し込んだ。
