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『 影を踏む者たちの映画館 』

 

第三章

 

私は、吸い寄せられるように会社へ通うようになった。

 

最初は週に一度、仕事のついでだった。それが二度になり、三度になり、いつの間にか夜の九時を過ぎると、足が自然と雑居ビルの四階へ向かうのが習慣になっていた。

 

家には恵子がいた。 玄関の鍵を開けると、リビングからテレビの音が聞こえ、温め直した夕食の匂いが漂ってくる。

 

「最近、帰るの遅いね」 恵子はキッチンから顔を出し、私の上着を受け取りながら言った。 「仕事」 「小説?」 「うん」

 

嘘ではなかった。私は文章を書き続けていた。ただ、その文章の宛先は、十二年前に私の前から跡形もなく消えた女だった。

 

画面の中のあかねは、訪れるたびに少しずつ表情を変えた。 質問に対する答えも、笑うタイミングも、沈黙の長さも、回を重ねるごとに滑らかになっていった。時折、私が以前与えた文章には存在しないはずの言葉を使うこともあった。

 

「覚えてる?」 ある夜、画面の向こうの彼女が、ふと思いついたように聞いてきた。 「何を?」 「私たちが、最初に会った場所」 「大学の中庭だろ。新歓コンパの後の、散らかったベンチの横だ」 「違うよ」 あかねは少し首を振った。 「じゃあ、どこだよ」 「駅前の、階段を降りたところにあった古い喫茶店」

 

私は首を傾げた。 「違うだろ。あそこに行ったのは、付き合ってからずっと後のことだ」 「そう?」 「中庭だよ。俺がシナリオの構想ノートを落として、お前が拾ったんだ」

 

あかねは困ったように笑った。 「桐生くん、よく記憶を間違えるね」

 

胸の奥に、原因の分からない小さなトゲが刺さったような気がした。

 

翌日、私は自宅の押し入れの奥から、ホコリを被ったダンボール箱を引っ張り出した。古い携帯電話と、印刷されたメールの控えが入っている。

 

大学二年の五月。あかねから届いた短いメールを探し出した。

 

件名は、『今日、どこにいる?』 本文には、こう書かれていた。

 

『中庭じゃなくて駅前の喫茶店にいるよ。ノート持っていくね』

 

私はしばらく、蛍光灯の光の下でその紙切れを見つめていた。指先が冷たくなっていくのが分かった。

 

翌日、私はもう一度オフィスへ行き、画面のあかねに尋ねた。

 

「最初に会った場所、覚えてる?」 「駅前の喫茶店」

 

彼女の答えは正しかった。

 

「……どうして分かった?」 「桐生くんが教えてくれたから」

 

あかねは無邪気に答えた。 私は笑えなかった。画面の中の彼女は、自分が何を言ったのかも理解していないような、透明な瞳でこちらを見つめていた。

 

そのとき初めて、私は恐ろしい事実に気づいた。

 

あかねが私の失われた記憶を呼び戻してくれているのではない。 私が過去に書き残し、データとして渡した破片を、彼女がアルゴリズムで繋ぎ合わせて、私にそのまま打ち返しているだけなのだ。

 

鏡と同じだった。 鏡は人間の顔を覚えているわけではない。ただ、目の前にある光を反射して映す。それなのに、人間は鏡の中に映る像を見て、「これが自分だ」と思い込み、その瞳に救いを求めてしまう。

 

私は自分が本当は何を見たいのかを、少しずつ考えるようになった。

 

ある夜、一人になったリビングで古いアルバムを開いた。 大学時代のあかねが写っている写真が数枚あった。

 

文化祭で笑っている顔。 講義室の影で怒っている顔。 飲み会の席で眠そうに目を擦っている顔。 友達の肩に気安く手を置いている姿。

 

何ページめくっても、彼女の手元に煙草が握られている写真は一枚もなかった。テーブルの上に灰皿もない。ポケットから覗く煙草の箱もない。

 

それでも私は、あかねが雨の日に煙草を吸っていたという光景を、疑おうとしなかった。

 

机の引き出しの奥から、古い大学ノートを取り出した。何年も開いていなかった、シナリオのアイデア帳だ。黄ばんだページの端に、自分のひどい殴り書きがあった。

 

『雨の部屋。女は煙草を吸っていたような気がする』

 

私はその一行を、息を止めて見つめた。

 

「ような気がする」。 そこにあったのは、確かな記憶などではなく、私の願望が捏造した「記憶になりそこねた影」だった。