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『 あの人は、今 』
第三十章 尾道へ
写真の男の住所が尾道にあることが分かってから、恭一は何度も地図を見た。
実家から近い。
あまりにも近い。
しかし、すぐには行かなかった。
自分の仕事で一番大切なのは、探される人の時間を守ることだった。
それなら、自分も同じことをしなければならない。
恭一は男宛ての手紙を用意した。
会社名は書かない。
自分の名前だけを書く。
母の名前も、最初からは出さない。
ただ、昔の知人が、あなたの現在を知りたいと思っている。
連絡を望まないなら返事は必要ない。
そう伝える。
その手紙を持って、尾道へ帰った。
第三十一章 写真の男
住所の家には、年配の男性が住んでいた。
表札の名字は一致している。
恭一は、玄関前で立ち止まった。
インターホンには触れなかった。
少し離れた場所から家を見る。
庭に植木がある。
物干し竿。
古い自転車。
生活がある。
ここで誰かが四十年以上暮らしている。
その生活を、突然、自分の過去で揺らしていいのか。
恭一は帰った。
その日の夜、父に何も言わなかった。
父も何も聞かなかった。
翌朝、父がカメラを持って出掛けるのを見送った。
恭一は、父の後ろ姿を見ながら思った。
門の向こうには、その人の暮らしがある。
恭一は、そこで初めて、自分が会社で決めたことの重さを実感した。
探すことができても、踏み込んでいいとは限らない。
第三十二章 父が話したこと
父は、その日の夕方、古い写真を一枚持って帰ってきた。
若い母。
若い父。
そして、その男。
父は写真を恭一へ渡した。
裏には、母の字で、
「ありがとう。」
と書かれていた。
誰に向けた言葉なのか分からない。
父は、長い間この写真を持っていた。
そして、母が亡くなる直前、母から一度だけ言われたことを話した。
あの人は、まだ生きているのだろうか。
父は、答えなかった。
生きているとも、死んでいるとも言わなかった。
ただ、母の手を握った。
それだけだった。
恭一は、父が今まで何も言わなかった理由を、初めて理解した。
父は知らなかったのではない。
知っていて、言わなかった。
母が最後まで自分の中に持っていたものを、父はそのまま持たせていた。
それは嫉妬ではない。
愛情という言葉だけでも足りない。
相手の人生を、相手のものとして残すこと。
それが夫婦の間にあるものなのかもしれない。
第三十三章 会うか、会わないか
恭一は、母の友人へ連絡した。
写真の男が尾道にいる可能性が高い。
だが、まだ本人に接触していない。
女性は、すぐには返事をしなかった。
しばらくして、一つだけ頼みがあると言った。
本人が望まないなら、それでいい。
ただ、もし会ってもいいと言うなら、自分は会いたい。
母の代わりではない。
昔の自分のためでもない。
ただ、四十年以上言えなかったことを、一度だけ話したい。
恭一は、その言葉を聞いて、会社を始めた日のことを思い出した。
「あの人は、今どうしているのか」
恭一は男へ手紙を送った。
返事を急がせない。
それ以上のことはしない。
第三十四章 あの人は、今
返事が来たのは、一週間後だった。
封筒は薄かった。
恭一は、事務所で一人になってから開いた。
便箋には、短い文章が書かれていた。
自分が誰なのかは分かっている。
昔のことも覚えている。
だが、今さら誰かと会うことに迷いがある。
そう書いてあった。
最後に、
「ただ、一つだけ聞きたいことがあります。」
とあった。
恭一は読み進めた。
母の名前。
そして、
「あの人は、最後まで幸せでしたか。」
という一文。
恭一は、そこで手紙を置いた。
答えられない。
母が幸せだったかどうか。
それは、母にしか分からない。
父にも分からない。
息子にも分からない。
ただ、母には父と暮らした時間があり、自分が生まれた。
笑った日もあった。
喧嘩した日もあった。
病気になった日もあった。
そして最後に、昔の友人を思い出した。
それだけの人生を、幸せか不幸せか、一つの言葉で決めることはできない。
恭一は、手紙を書き直した。
母が幸せだったかどうかは分からない。
ただ、最後まで家族のことを気にしていた。
そして、あなたのことを懐かしそうに話していた。
それだけを伝えた。
それ以上は書かなかった。
手紙を封筒に入れる。
そのとき、岩城が事務所へ戻ってきた。
恭一の顔を見て、何かあったことは分かったらしい。
それでも聞かなかった。
恭一も話さなかった。
仕事を続ける。
それだけだった。
会社には、その日も新しい依頼が届いていた。
昔の友人を探してほしい。
高校時代の同級生。
昔の恋人。
離れてしまった兄弟。
恭一は、その名前を記録した。
それから、依頼者の話を聞く。
何を探しているのか。
なぜ、今なのか。
その人に何を伝えたいのか。
名前の奥にあるものを、恭一は無理に聞き出さない。
夕方、恭一は会社の窓から外を見た。
大阪の街が、仕事を終えた人間を駅へ運んでいる。
誰かが帰る。
誰かが待つ。
恭一は、机の引き出しを開けた。
そこには、母の写真が一枚だけ入っている。
若い母が笑っている。
その隣に、父がいる。
少し離れたところに、写真の男がいる。
三人とも、今はいない時間の中にいる。
けれど、その写真を見る恭一の中では、三人の時間がまだ続いている。
父が庭先でカメラを手入れしていた夏の日を思い出す。
母が亡くなる少し前、昔の友人を何度も思い出していたこと。
会社を辞めた日。
岩城と二人で何をするかも決まらないまま、新しい仕事を始めたこと。
「あの人は、今どうしているのか」という、ほんの小さな問い。
それが、会社になった。
明日も会社へ行く。
誰かの話を聞き、必要なら調べる。
見つかったあとは、その人に返す。
恭一は写真を引き出しへ戻した。
窓を閉め、事務所の照明を一つずつ消す。
最後の明かりを消す前に、壁を見る。
そこには、二つの言葉がある。
「あの人は、今どうしているのだろう。」
「探される人の時間も守ります。」
恭一は、その二つをしばらく見ていた。
そして、照明を消した。
暗くなった窓に、自分の顔が映っている。
母に似ていると言われたことがある。
父に似ていると言われたこともある。
どちらなのか、自分では分からない。
ただ、二人が選んだ人生の先に、自分がいる。
事務所を出る。
大阪の夜は、今日も何事もなかったように続いている。
階段を下りたところで、携帯電話が震えた。
新しい依頼だった。
画面には、知らない名前が一つ表示されている。
恭一は歩きながら、その名前を見た。
なぜ、今、この人を探すのか。
急がずに聞けばいい。
