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『 あの人は、今 』

 

第十四章 父のカメラ

 

尾道から、また写真が送られてきた。

 

海沿いの道。

 

古い家。

 

夕方の商店街。

 

誰もいないベンチ。

 

どれも特別な写真ではない。

 

だが、恭一には父が何を撮っているのか、少し分かるようになっていた。

 

母がいた頃の尾道ではない。

 

母がいなくなった後の尾道を撮っている。

 

同じ場所なのに、人が一人いなくなると景色が変わる。

 

父は、その変化を写真に残している。

 

その写真を見ていると、恭一は父の仕事と自分の仕事が、遠くないところにある気がした。

 

父が撮っているのは、母がいなくなった後の町だ。

 

自分が探しているのも、そこに残った時間なのかもしれない。

 

第十五章 もう一人の依頼者

 

ある朝、会社に一通の封書が届いた。

 

差出人は、母の友人だった。

 

恭一は封を開けた。

 

母が最後に会いたがっていたこと。

 

自分も一度会いたかったこと。

 

けれど、四十年経ってしまったこと。

 

そして最後に、写真の男を探してほしいという依頼が書かれていた。

 

恭一は、その一行を何度も読んだ。

 

女性自身も男の行方を知らない。

 

最後に会ったのは、京都を離れる前。

 

それから四十年以上、消息はない。

 

同封されていた写真は、恭一が持っているものと同じだった。

 

ただし、裏側に文字がある。

 

恭一は写真を裏返した。

 

そこには住所が書かれていた。

 

「尾道」。

 

恭一は、しばらく意味が分からなかった。

 

京都にいた男。

 

尾道から来た母。

 

そして、男が最後に残した住所が、自分の故郷と同じ町。

 

しかも、その住所は尾道の実家から、そう遠くない場所だった。

 

第十六章 尾道の家

 

尾道へ帰るとき、恭一は父に連絡をしなかった。

 

帰省するなら、以前は新幹線の時間まで知らせていた。

 

今回は知らせないほうがいいと思った。

 

写真の裏に書かれた住所を確かめる。

 

それだけのことなのに、足取りは重かった。

 

尾道駅を出ると、海の匂いがした。

 

大阪にいると海は遠い。

 

尾道では、海が町のすぐ横にある。

 

子供の頃には気づかなかった。

 

海があることが当たり前だったからだ。

 

住所の場所には、小さな二階建ての家があった。駅から少し離れた、古い住宅街だった。

 

表札を見る。

 

写真の裏に書かれた名字と同じだった。

 

恭一は門の前に立った。

 

インターホンに手を伸ばしかけて、やめた。

 

自分なら、まず手紙を送る。

 

いきなり訪ねることはしない。

 

それが会社で決めていることだった。

 

なのに、自分のことになると簡単に約束を破りそうになる。

 

恭一は苦笑した。

 

仕事は他人のためなら冷静にできる。

 

自分のことになると、急に素人になる。

 

その日は訪ねなかった。

 

夕方、実家へ戻った。

 

第十七章 父の夕飯

 

実家の玄関を開けると、父は台所にいた。

 

冷蔵庫を開けたまま、何を取るのか忘れている。

 

恭一を見ると驚いた顔をした。

 

驚いたあと、すぐにいつもの顔に戻った。

 

夕飯はスーパーで買ってきた刺身と惣菜だった。

 

母がいた頃なら、もう少し品数があった。

 

二人分の茶碗が並んだ。

 

恭一は、そのことに気づいた。

 

父は気づいていないふりをしている。

 

こういう小さなことが、昔から父の得意なところだった。

 

夕飯を食べ終わってから、恭一は写真を出した。

 

若い母。

 

隣に女性。

 

その奥に若い男。

 

父は写真を見るなり、箸を置いた。

 

顔色が変わった。

 

写真を持つ手が少し震えている。

 

「知ってるの?」

 

父はすぐには答えなかった。

 

やがて、

 

「知ってる」

 

と言った。

 

父は台所へ立った。

 

冷蔵庫を開け、水を取り出し、一口飲んだ。

 

それから戻ってきた。

 

「その人は、昔、うちに来た」

 

母が京都へ行く前だった。

 

父も会っている。

 

母の友人としてではない。

 

写真の男とも会っていた。

 

ただし、父が知っていたのは男の存在だけではなかった。

 

第十八章 父が隠していたもの

 

父は押し入れの奥から古い箱を持ってきた。

 

中にはネガフィルムが何本か入っていた。

 

そして、小さな革のケース。

 

ケースの中には写真が一枚あった。

 

若い父。

 

若い母。

 

二人が並んで写っている。

 

場所は尾道。

 

母が京都へ行く前の日だった。

 

裏には日付がある。

 

恭一は顔を上げた。

 

「誰が撮ったの?」

 

父は答えた。

 

「あの男だ」

 

恭一は言葉を失った。

 

母の恋人だった男が、母と父の写真を撮っている。

 

父は話した。

 

男は母を尾道まで送ってきた。

 

母は京都へ行くつもりだった。

 

最後の日になって、気持ちが変わった。

 

そのとき父は、まだ母と付き合っていたわけではない。

 

ただ、母のことが好きだった。

 

男も、それを知っていた。

 

三人で話した。

 

男はカメラを取り出し、母と父を並ばせた。

 

最後に一枚だけ撮った。

 

男は京都へ戻った。

 

母は尾道に残った。

 

父と母は結婚した。

 

恭一が生まれた。時間は前へ進んだ。それでも父は、その写真だけを捨てなかった。

 

「何で今まで見せなかったの?」

 

父は少し考えて、

 

「お前には必要なかったからな」

 

と言った。

 

子供には必要なかった。

 

だが三十二歳になった今の自分には、必要なのかもしれない。

 

人は年齢によって、必要な過去が変わる。