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『 あの人は、今 』
第一章 夏の尾道
尾道の夏は、海から来る風まで暑い。
村瀬恭一は、庭先の縁台に腰を下ろしていた。
帰省するのは一年ぶりだった。
昨年は、母の葬儀のために帰ってきた。
今回の帰省には、昨年までと違う重さがあった。母のいない家へ戻るということに、身体のほうがまだ慣れていない。
家は、思っていたほど静かではない。
冷蔵庫が低く唸り、エアコンが水を落とし、隣家の犬が昼寝から起きて鳴く。人が一人いなくなっただけなのに、家は以前と同じように生活を続けている。
恭一は、その音を聞きながら、母がいなくなったことだけが家から抜け落ちているような気がした。
庭では、父の俊哉がカメラを手入れしていた。
六十九歳になった父は、母が亡くなってから以前より写真を撮るようになった。
母が生きていた頃は、父がカメラを持って出掛けようとすると、母が呆れたような顔をしていた。
「また撮るの」
そう言いながら、玄関まで出てきて、父の帽子を直してやることがあった。父は嫌がるくせに、その手が離れるまで動かなかった。
今は、聞く人も、直してくれる人もいない。
父がレンズを外し、柔らかな布で丁寧に拭いている。
その手つきだけは、昔から変わらなかった。
母の遺影を撮ったのも、手にしているカメラだった。
「お前、まだ良い人が見つからんのか」
父はカメラから目を離さずに言った。
恭一は苦笑した。
「こっちは良いと思っても、相手が俺をそうは思わないって感じかな」
父は笑わなかった。
真面目に答えを聞いていたらしい。
しばらくして、レンズを取り付けながら、
「難しいもんだな」
と言った。
父から恋愛の心配をされるのは、なんとも妙な気分だった。
だが、その父ももうすぐ七十になる。
昔なら、七十歳というのはずいぶん遠い年齢だった。
今は、父の背中を見ていると、そう遠くない年齢に思える。
「去年、こっちへ帰ってきて母さんを看取っただろ」
父が言った。
「うん」
「亡くなる少し前にな、名前は忘れてたみたいだけど、京都へ引っ越した友達のことを、何度も言ってた」
恭一は父を見る。
「京都の?」
「そう。誰だったか俺には分からんかったけどな」
父はカメラの底を覗き込んだ。
「懐かしそうに言うんだよ。何度も同じ話をするから、もうええよって言ったこともある」
母は晩年、昔のことをよく話した。
最近のことは忘れるのに、何十年も前の話になると、不思議なほど細かかった。
誰かが着ていた服。
雨の日の匂い。
学校帰りに食べた菓子。
そういう、本人以外にはどうでもいいようなことを、大切そうに話していた。
「俺もな」
父がカメラを布で包んだ。
「母さんみたいに、思い出す奴が何人かいる」
そこで一度、言葉を切った。
「もう会うことはないだろうけどな」
父は立ち上がり、カメラを肩に掛けた。
「どこ行くん?」
「写真撮ってくる」
「暑いよ」
「暑いから撮れるもんもある」
そう言って、父は庭を出ていった。
恭一は、その後ろ姿を見送った。
父の歩き方が、少し小さくなったように思えた。
親父も年を取ったな。
そう思ったところで、携帯電話が鳴った。
画面には、会社の同僚、岩城の名前が出ている。
「もしもし」
「村瀬、驚くなよ」
電話の向こうの声が妙に低かった。
「会社、やばい」
「何が?」
「外資に乗っ取られた」
一瞬、意味が分からなかった。
会社が買われた。
それだけなら、ニュースでもよく聞く話だ。
だが、岩城の次の言葉で、恭一の背筋が伸びた。
「俺たち、切られるかもしれん」
蝉が鳴いていた。
庭の向こうでは、父がもう見えなくなっている。
青天の霹靂とは、こういうことなのだろう。
頭では分かっている。
ところが、現実味がない。
電話を切って数分もしないうちに、その言葉が少しずつ身体の中へ入ってきた。
仕事。
給料。
大阪の部屋。
三十二歳。
そして、まだ何者にもなれていない自分。
恭一は立ち上がった。
「岩城、俺、そっち行くわ。詳しい話、聞かせてくれ」
その日の夕方、恭一は大阪へ戻ることにした。
父には、会社で急な話が出た、とだけ伝えた。
玄関まで見送りに来た父は、
「飯、ちゃんと食えよ」
と言った。
母が生きていた頃も、父は同じことを言っていた。
恭一は、その言葉を聞いて初めて、母がいないことをもう一度思い出した。
第二章 会社を辞める
会社は、翌月から名前が変わった。
机も変わらなかった。
パソコンも変わらない。
社員証のロゴだけが変わった。
それなのに、そこにいる人間の顔は、以前とは違って見えた。
誰も口にはしなかったが、皆、自分の値段を計算していた。
会社にとって、自分は幾らの人間なのか。
そして、切られるとしたら、いつなのか。
恭一の部署は再編の対象になった。
岩城が先に辞めた。
恭一も、その二週間後に退職届を出した。
会社を辞めるとき、人間はもっと感傷的になるものだと思っていた。
実際には違った。
貸与されたパソコンを返し、机の引き出しを空にし、最後に社員証を受付へ返す。
それだけだった。
建物を出ると、外はいつも通りの大阪だった。
人が歩き、信号が変わり、タクシーが走っている。
世界は、自分が会社を辞めたことなど知らない。
それが少し腹立たしく、同時にありがたかった。
岩城と二人で、新しい事業を始めようという話になった。
しかし、二人とも「何をするか」が決まっていなかった。
喫茶店。
ファミリーレストラン。
岩城のアパート。
二人は場所を変えて話し合った。
動画制作。
中古家電。
高齢者向けの買い物代行。
企業の営業代行。
どれも、それらしい。
そして、どれも二人でなければならない理由がなかった。
問題は、そこだった。
ある夜、二人は遅くまで話した。
帰宅してからも眠れず、恭一は天井を見ていた。
そのとき、尾道の庭が浮かんだ。
父の手。
カメラ。
そして、あの言葉。
――京都へ引っ越した友達。
名前は忘れている。
でも、会いたがっていた。
恭一はベッドから起き上がった。
携帯電話を手に取る。
時刻は午前一時を回っていた。
それでも岩城へ電話を掛けた。
「人を探す仕事って、どうかな」
電話の向こうで、岩城が黙った。
恭一は、自分でもまだ形になっていない考えを言葉にした。
「昔の友達とか、昔の同僚とか、昔好きだった人とか。何十年も会ってない人を探してほしいっていう人、いるんじゃないかな」
探偵とは違う。
浮気相手でも家出人でもない。
人生の途中で離れてしまった誰か。
あの人は、今どうしているのか。
ただ、それを知りたい人たちだ。
父の言葉が、仕事の種になった。
