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『 賀茂川の向こう側 』

 

七 二人分

 

 涼太の家族の話が出たのは、二人が何度か会うようになってからだった。大阪の家には、独立した息子がいる。ある夕食のあと、息子から電話があった。

 

「父さん、最近京都に行ってるんだって?」

 

「うん」

 

「誰かいるの?」

 

 涼太は少し黙ってから、昔付き合っていた人がいることを話した。息子は母親のことを尋ねた。離婚して十年になる。忘れたわけではない、と涼太は答えた。

 

 電話を切ったあと、涼太は翔子にその話をした。翔子にも娘がいる。親が新しい人生を始めることを、子どもが簡単に受け止められるとは限らない。だからといって、子どものためだけに残りの人生を決める必要もない。その境目を、翔子は慎重に考えていた。

 

 彩花が来た日、翔子は涼太のことを話した。昔付き合っていたこと。最近、よく会っていること。家にも来るようになったこと。

 

「お母さん、最近、楽しそうだね」

 

「そう?」

 

「うん」

 

 それから彩花は少し考え、父親がいなくなってから、まだそんなに時間が経っていない気がする、と言った。翔子はその言葉を責めることができなかった。

 

「お父さんを忘れてないよ」

 

「うん。分かってる」

 

 彩花が帰ったあと、翔子は健二の写真を見た。誰かを好きになることは、誰かを忘れることではない。そう思うと、胸の中にあった小さな罪悪感が少しほどけた。

 

 その頃から、涼太が翔子の家へ来ることが増えた。昼食だけの日もあれば、夕食まで一緒にいる日もある。涼太は惣菜を買ってきて、翔子は味噌汁を温める。食後には、涼太が自然に皿を洗う。

 

 そこに「恋人らしい」場面はほとんどない。けれど、翔子には、そのほうがよかった。大学生だった頃には知らなかった今の涼太が、台所に立っている。白髪が増え、肩も少し丸くなった背中を見ていると、四十五年という時間が急に身近になった。

 

 ある日、涼太が棚の奥にあるコーヒーカップを見つけた。健二が使っていたものだった。

 

「まだ使ってるのか」

 

「うん。まだ使えるから」

 

 涼太は、それ以上何も言わなかった。その沈黙が、翔子にはありがたかった。健二の時間を消して、涼太の時間に置き換える必要はない。二つの時間が同じ家にあってもいい。

 

 そう思えるようになった頃、翔子は気づいた。一人で生きていけることと、一人でいたいことは同じではない。

 

 その違いを認めることに、もう以前ほどのためらいはなかった。