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『 2rd 尾道の坂を下って 』
第九章 夜行バスと朝の電車
深夜の梅田。日付が変わる少し前、夜行バスの乗り場には大きな荷物を抱えた人たちが静かに並んでいた。
里奈はボストンバッグを両手で持ち直し、ステップを踏みしめて車内へ向かった。
指定された窓際の席に深く腰を下ろし、冷たいガラスにそっと額を寄せる。
定刻の午前零時半、バスは静かに滑り出した。
車窓の向こうを、深夜の大阪の街並みが流れていく。街灯の光、高層ビルの窓から漏れる残業の明かり、高速道路の防音壁。
これまで数年間、自分を包み込み、そして少しずつ心を擦り減らしていった平坦な街が、後方へと遠ざかっていく。
リクライニングを少し倒し、目を閉じた。仕事を辞め、部屋を引き払い、慣れ親しんだ街を去る。大きな決断をしたはずなのに、胸の奥は驚くほど静かだった。焦りも不安もなく、深夜の高速道路を走る規則的な振動だけが心地よく全身に伝わっていた。
午前二時過ぎ、バスはサービスエリアで短い休憩に入った。
羽織りを一枚手に取り、ステップを降りる。ひんやりとした深夜の空気に、排気ガスとかすかな草の匂いが漂っていた。自販機の白い光のもとで温かい缶コーヒーを買い、湯気立てる缶を両手で包み込む。
離れた場所でトラックの運転手たちが低い声で笑い合い、別の場所では若者たちが旅行の目的地を話していた。誰もがそれぞれの目的を持って移動し、日常はどこでも絶え間なく続いていく。
「私の日常も、ここからまた始まるんだ」
缶コーヒーを飲み干してバスに戻ると、今度は自然と重い睡魔が襲ってきた。心地よい揺れの中で、里奈は深い眠りについた。
「東福山に到着します」
車内の小さなアナウンスで目が覚めた。
時計は午前五時過ぎ。カーテンの隙間から差し込む光は、まだ夜と朝の境界線にあった。
薄暗い空の下に浮かぶ知らない駅前の明かり。ボストンバッグを肩に掛け、バスを降りると、冷たい朝の空気が頬を撫でた。
尾道までは、ここから電車に乗り換えなければならない。
駅へ向かう道を歩きながら、里奈は少しだけ笑った。昔なら乗り換えの手間を面倒に思ったかもしれない。けれど今は、その一つひとつが、自分で選んだ道の途中にあることが嬉しかった。
静まり返ったホームで静かに尾道の天気(晴れ)を確認し、バッグの中にある鍵の感触を確かめる。
六時半を過ぎたころ、ホームに黄色い始発列車が入ってきた。
乗り込むと車内には静寂が満ちていた。福山、備後赤坂、松永、東尾道。駅に停まるたび、欠伸をする学生や作業服姿の男性が乗ってきて、朝の街が少しずつ動き始めていく。
そして、松永を過ぎて線路がゆるやかなカーブを描いた瞬間だった。
窓の外に広がる景色は、もはや大阪のそれとは完全に異なっていた。
入り組んだ山々の緑。古い瓦屋根が連なる小さな家々。そして、朝日を反射してキラキラと黄金色に輝く、穏やかな海。
幾重にも重なる、懐かしい急な坂道。
里奈は窓ガラスに再び額を寄せ、息をのんだ。
「帰ってきた……」
誰に聴かせるでもなく、小さく呟いた。その声は、朝の光の中に優しく溶けていった。
