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『 2rd  尾道の坂を下って 』

 

第五章 山崎屋の灯り

 

 その夜、商店街の脇道に暖簾を掲げる干物屋『山崎屋』の店内には、父親が一人で佇んでいた。

 

 木製の作業台の上には、明日の競りに回すための干物の箱が整然と積まれている。

 

 アジ、サバ、カマス。塩分を含んだ海風と魚の乾いた独特の匂いが染みついた土間で、父親は黙々と手を動かし、箱の角を揃えていた。長年使い込まれた包丁や網が、壁に整然と掛けられている。

 

 和樹が大阪へ向かうことは、もう決まっている。

 

 先ほど店を飛び出していった息子の足音を、父親は作業の手を止めることなく聞いていた。理由を尋ねることも、引き留めることもしなかった。不器用な親子だった。言葉を出せば出すほど、お互いの角が立ってしまう。

 

 父親は、いつもと同じように網を拭き、床を掃き、閉ざされた店内の空気を入れ替えるために勝手口の戸を少しだけ開けておいた。

 

 やがて店じまいの時間になり、父親は重い木製のガラガラ戸を下ろした。

 

 ガラガラ、バタン。

 

 静かな街に、戸が閉まる無骨な音が響く。鍵をかけようと手を伸ばした、その時だった。

 

 戸の隙間から、勢いよく人影が滑り込んできた。息を切らした和樹だった。

 

「……忘れ物か」

 

 父親は振り返りもせず、低い声で言った。

 

「店の鍵」

 

 和樹は自分のポケットを指さした。

 

「予備のやつ、置きっぱなしだったから」

 

 父親は作業台の上に置かれていた使い古しの真鍮の鍵を手に取ると、和樹の方へ放るように差し出した。

 

「持っていけ」

 

「いいの?」

 

「なくすなよ」

 

 和樹は戸惑いながらも、その重みのある金属の鍵を受け取った。ひんやりとした感触が手のひらに残る。

 

「……父さん」

 

「何じゃ」

 

「俺が戻ってきても、この店、まだある?」

 

 父親は手を止め、ゆっくりと和樹の方を振り返った。頑固そうな眉間のしわは深かったが、その奥の目はどこか静かだった。

 

「知らん」

 

「そこは、あるって言ってよ」

 

「店は生き物じゃ。街が変われば店も変わる。先の事まで約束できる親がどこにおる。残したけりゃ、お前が継げばよかったんじゃ」

 

 和樹は口を結び、黙り込んだ。

 

 父親は何も言わずに奥の帳場へ歩いていくと、古い木製の引き出しから一枚の写真を丸めて取り出してきた。フチが黄色く変色した、白黒に近いカラー写真だった。

 

 そこに写っていたのは、まだ若く、精悍な顔つきをした父親と、幼い和樹を抱っこして柔らかく笑う亡き母親の姿だった。後ろには開店当初の山崎屋の看板が写っている。

 

「これ、持っていけ」

 

「……俺が?」

 

「他に誰がおる」

 

 和樹は躊躇いがちに写真を受け取った。表面をなぞると、古い紙のざらついた感触が伝わってきた。

 

 父親は照れくさそうに背を向け、作業台の掃除を再開した。

 

「勝手に行け。自分の足で立って見せろ」

 

 和樹は写真をポケットにしまい、強く頷いた。

 

 その重みを確かめるように、ポケットの上からそっと手を当てた。

 

 古い紙の感触が、これから離れていく町と、まだ離れきれない家の両方を思わせた。

 

「うん」

 

 しばしの沈黙が流れた。潮風が勝手口から吹き抜け、天井から下がった裸電球をかすかに揺らした。

 

 背中を向けたまま、父親がポツリと付け加えた。

 

「……倒れたら、いつでも戻ってこい」

 

 和樹の口元が、自然と緩んだ。

 

「分かった。行ってくる」

 

 店の外へ出ると、夜の尾道の空気はひんやりと澄んでいた。

 

 数歩歩いて振り返ると、山崎屋の木枠の隙間から、オレンジ色のあたたかい灯りが漏れていた。和樹はその灯りをしっかりと目に焼き付けると、駅へと続く坂道を力強く歩き始めた。