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「 尾道の坂を下って 」 ⑧ー⑤
第七章 三十分の外
里奈のノートに、時刻を書く欄が増えた。
頼まれたことの隣には、終わるはずの時刻も書いた。
それでも、書いたとおりに終わるとは限らなかった。
栗原に頼まれたのは、携帯電話に届いた写真を紙にしてほしい、ということだった。
「孫の写真が七枚あるんよ」
栗原は古い携帯電話を里奈へ渡した。
「写真屋へ持っていけばええんじゃろ」
「この電話ごとですか」
「写真だけ外したら、電話ができんようになるじゃろ」
「写真を取り出すというのは、そういう意味ではありません」
説明しても、栗原は納得しなかった。結局、里奈は携帯電話を預からず、栗原と一緒に店まで下りることにした。
七枚のはずの写真は、四十枚近くあった。
同じ子どもが、同じ遊具の前で、少しずつ違う顔をしていた。
「どれにしますか」
「ええのを選んで」
「私には選べません」
「笑うとるのがええ」
「全部笑っています」
一枚ずつ画面を見せた。栗原は、これもええ、それも捨てがたいと言った。選んだ写真を注文するところまでに、一時間かかった。
出来上がりを待ち、坂の上の家へ届けると、二時間近く過ぎていた。
栗原は写真を畳へ並べ、何度も置き換えた。
「大きいのを一枚にすればよかったね」
「それは、最初に聞きました」
「聞かれたときは、分からんかった」
栗原は小銭入れから三百円を出した。
里奈は受け取った。
帰りの石段で掌を開くと、汗で硬貨が湿っていた。
二時間で三百円だった。
写真を選んだ時間も、店で待った時間も、坂を上った時間も、なかったことにはできない。けれど、頼まれる前に金額を言わなかったのは自分だった。
翌週、栗原からまた声がかかった。
「今度は、写真を入れる帳面を買うてきて。入れるところまで頼む」
「三十分まで三百円です」
里奈は言った。
「三十分を過ぎたら、五百円。アルバム代は別です」
栗原は口を少し開けた。
「この前は三百円じゃったよ」
「この前、先に決めなかったのは私の間違いです」
「テルちゃんは三百円でしてくれる」
「では、テルさんに頼んでください」
庭の鉢の間でりんごを食べていたテルさんが、顔を上げた。
「私は写真を選ばんよ」
「選ばんでええ。入れるだけで」
「三十分たったら、途中でも帰るよ」
「途中で帰られたら困る」
栗原は里奈とテルさんを見比べた。
「五百円で、最後までしてくれるん?」
「一時間までです。終わらなければ、残りは別の日にします」
「細かいねえ」
「お金のことは、細かくしておいたほうがいいんです」
どこかで言ったことのある言葉だった。
栗原はしばらく考えたあと、電話台の引き出しから千円札を出した。
「先に払う」
「終わってからで大丈夫です」
「途中で帰られたら困るけえ」
里奈は千円札を受け取り、五百円玉を返した。
アルバムを買い、写真を日付順に並べた。栗原は途中で何度も、これは何月じゃったか、あの子の誕生日はいつじゃったかと言った。
一時間で、最後の一枚まで入った。
栗原は閉じたアルバムの表紙を手でなでた。
「三百円でも、できたんじゃない?」
「できません」
里奈は答えた。
今度は、笑わずに言えた。
第八章 仕事ではない
それから二か月がたった。
里奈のノートには、二十人ほどの名前が並んでいた。
毎週決まって頼む人もいれば、一度きりの人もいた。電話が鳴るたび、空白だった一日のどこかに、人の名前が入った。
朝、鞄へノートを入れるとき、今日は誰の名前が増えるのだろうと思うようになっていた。
ある晩、携帯電話に大阪の元同僚からメールが入った。
〈まだ尾道にいるの?〉
里奈は、しばらく考えてから返した。
〈いるよ。少し仕事もしてる〉
すぐに電話が鳴った。
美穂だった。大阪の会社で、三年ほど同じ部署にいた。
「仕事、見つかったの?」
懐かしい声だった。
「見つかったというか、自分でやってる」
「何の仕事?」
「買い物へ行ったり、郵便を出したり、人の話を聞いたり」
「介護?」
「介護ではないの。できることだけ。一回三百円で」
電話の向こうが静かになった。
「それで暮らせるの?」
「家賃が安いから。食事をもらうこともあるし、何とか暮らしていけそう」
「里奈」
同僚の声が変わった。
「何?」
「そんな仕事はしちゃ駄目だよ」
里奈は笑おうとした。
「どうして?」
「だって、それは仕事なんかじゃないよ」
「お金はもらってる」
「三百円でしょう。人に恵んでもらってるようなものじゃないの」
里奈は何も言えなかった。
「変な人の家に入ったりしてない? 何かあったらどうするの。会社なら守ってくれるけど、今は誰も——」
「もう切るね」
「里奈、怒ったの?」
「怒ってない」
「心配してるだけだから」
「分かってる」
電話を切った。
机の上には、その日受け取った百円玉が九枚あった。
二人分の買い物。三十分の留守番。病院へ付き添った人からは、昼食代だと言って千円を渡され、断りきれなかった。
里奈は百円玉を一枚ずつ並べた。
九百円。
朝から夕方まで動いて、手元に残ったのは九枚だった。
明日は、そのうち三枚を持って小川の家へ行く。小川は牛乳を受け取ると、別の三枚を里奈の手へ載せる。
昨日まで、そこに迷うことはなかった。
里奈は並べた硬貨を掌で崩した。
床へ落ちた一枚が、箪笥の下へ転がった。
拾う気になれなかった。
第九章 来なかった人
翌朝、里奈は布団から出なかった。
九時に小川の牛乳を買うことになっていた。時計が九時を過ぎても、体を起こせなかった。
小川は待っている。
分かっていた。
分かっていることが、余計に苦しかった。
十時前、戸を叩く音がした。
「里奈ちゃん」
テルさんの声だった。
里奈は返事をしなかった。
「おるんじゃろ」
「いません」
「ほんなら誰が返事しとるん?」
戸が開いた。鍵をかけていなかった。
テルさんは買い物袋を畳へ置いた。中に牛乳が入っていた。
「小川さんが、里奈ちゃんが来ん言うて電話してきたよ」
「すみません」
「私に謝るん?」
里奈は布団の上へ座ったまま、昨日の電話のことを話した。
途中から涙が出た。止めようとすると、声まで震えた。
「机の百円玉を見たら、急に、自分が何をしていたのか分からなくなったんです」
テルさんは隣へ座った。
「小川さんに会えません」
テルさんは何も言わなかった。
「牛乳を渡したら、小川さんはまた百円玉を三枚出すでしょう。昨日までは、受け取れたんです。今朝になったら、手を出せなくなりました」
テルさんは、しばらく里奈の顔を見ていた。
「何か言ってください」
「今、何か言うたら、私の話になるよ」
テルさんの手が、里奈の背中に触れた。
子どもをあやすようでもなく、慰めるようでもなく、ただ同じところをゆっくりさすった。
里奈は泣き続けた。
「こんなこと、やってられません」
「うん」
「もう、やめます」
「うん」
「止めないんですか」
「やめるんじゃろ」
テルさんは立ち上がった。
「どこへ行くんですか」
「田辺さんが、郵便局へ行ってほしい言うとった」
「こんなときに?」
「田辺さんは、里奈ちゃんが泣いとることを知らんけえ」
テルさんは牛乳だけを残し、部屋を出ていった。
里奈はその背中へ、何も言えなかった。
昼を過ぎてから、里奈は箪笥の下へ手を入れた。昨夜拾えなかった百円玉には、薄く埃がついていた。
翌朝、小川の家へ行った。
「牛乳は、昨日もろうたよ」
「はい」
「今日は何しに来たん?」
「昨日、行かなかったことを謝りに」
小川は戸を半分だけ開けたまま、里奈を見た。
「それは頼んどらんよ」
「でも——」
「来週の牛乳は頼む。卵はまだあるけえ」
戸が閉まった。
里奈は、言えなかった言葉を持ったまま坂を下りた。その日からまた、ノートに書いた家を一軒ずつ回った。
六日ほどたった朝、テルさんは「カリフォルニア」と歌ったあと、続きが出てこなかった。窓際に立ったまま、二度息を継いだ。
「歌詞を忘れたんですか」
「最初から覚えとらんよ」
そう言って、いつもより早く歌をやめた。
その翌日の午後、玄関で何かが床へ当たる音がした。
テルさんが買い物袋を上がり框へ置き、壁へ片手をついていた。
「どうしたん?」
春江の声がした。
「何でもない。ちょっと暑かった」
里奈が袋を持とうとすると、テルさんは先に持ち上げた。
「これは私の頼まれごとよ」
晩ご飯を半分残し、テルさんは早く二階へ上がった。
夜、里奈が様子を見に行くと、もう布団へ入っていた。音楽プレーヤーは枕元に置かれ、イヤホンから小さく曲が漏れていた。
「具合が悪いんですか」
「眠いだけ」
「水、ここへ置きますよ」
返事はなかった。
里奈はコップを机へ置き、その夜は隣へ布団を敷いて眠った。
