この作品は盗用禁止です。

AIに登録してネット監視していますので、ご注意ください。

 

 

「 尾道の坂を下って 」  ⑧ー②

 

第二章 三日だけ

 

テルさんが買い物を届けた家は、坂の上にあった。古い木造の家で、玄関の前に植木鉢が並んでいる。

 

花が咲いているものは一つもなかった。

 

土だけの鉢にも水がやってあり、里奈には、何を育てているのか分からなかった。

 

「ハルさん、帰ったよ」

 

 テルさんが引き戸を開けた。

 

「ここ、あなたの家なんですか」

 

「違うよ」

 

 奥から声がした。

 

「テルちゃんの家になった覚えはないよ」

 

 七十歳をいくらか過ぎた女性が、廊下の突き当たりに立っていた。

 

 白い割烹着を着て、右手に杖を持っている。

 

 髪はきれいに整えられていた。

 

 女性はテルさんではなく、その後ろにいる里奈を見た。

 

「その人、誰?」

 

「大阪から来た人」

 

「名前を聞いとるんよ」

 

「何じゃった?」

 

 テルさんが里奈を振り返った。

 

「水野里奈です」

 

「そうそう。里奈ちゃん」

 

「今、覚えたんじゃろ」

 

「人の名前は、二回聞いたほうが覚えるけえ」

 

 テルさんは靴を脱ぎ、スーパーの袋を廊下へ置いた。

 

「牛乳と豆腐。りんごは四つ入りが高かったけえ、二つだけ」

 

「トイレットペーパーは?」

 

「この人が持っとる」

 

 里奈は、キャリーバッグの上に載せたままだったトイレットペーパーを下ろした。

 

 女性はそれを受け取りながら、もう一度里奈を見た。

 

「泊まるところを探しとるんじゃって」

 

「うちに泊めるとは言うとらんよ」

 

「まだ私も言うとらん」

 

「言う顔をしとる」

 

 テルさんは笑った。

 

 里奈は玄関に立ったまま、靴を脱げずにいた。

 

「突然すみません。宿が見つからなくて。でも、駅へ戻れば——」

 

「帰る電車はあるん?」

 

「あります」

 

「帰りたくないんじゃって」

 

 テルさんが代わりに答えた。

 

 女性は杖の先を床へつき、里奈のキャリーバッグを見た。

 

「何日?」

 

「決めていません」

 

「いちばん困る答えじゃね」

 

「すみません」

 

「謝る前に決めんさい」

 

 里奈は黙った。

 

 今日だけ泊めてもらうと言えばよい。

 

 明日は明日で考える。

 

 それが最も迷惑をかけない答えだと分かっていた。

 

 けれど、一晩だけでは、明日の朝からまた泊まる場所を探さなければならない。

 

「三日、お願いできますか」

 

 女性はテルさんを見た。

 

「三日じゃって」

 

「短いねえ」

 

「あんたは黙っとき」

 

「はい」

 

「テルちゃんに言うとる」

 

 女性は里奈へ向き直った。

 

「何ができるん?」

 

 里奈は答えようとして、言葉に詰まった。

 

 大阪の会社では、営業事務をしていた。

 

 見積書を作り、顧客からの問い合わせに答え、営業担当者の予定を調整した。  

 パソコンは使える。表計算も人並みにはできる。

 

 しかし、この家で何ができるかと聞かれても、そのどれも答えにならなかった。

 

「カレーなら作れます」

 

 なぜそれを言ったのか、自分でも分からなかった。

 

 女性の眉が少し動いた。

 

「カレーだけ?」

 

「肉じゃがも、一応」

 

「一応いう料理は、食べるんが怖いね」

 

 テルさんが口を挟んだ。

 

「私はりんごの皮がむけるよ」

 

「あんたに聞いとらん」

 

 女性はしばらく考えていた。

 

「三日だけ。晩ご飯を作ること。風呂は最後。寝るところはテルちゃんと同じ部屋」

 

「ありがとうございます」

 

「まだある。朝は七時。うちは旅館じゃないけえ、昼まで寝る人はいらんよ」

 

「分かりました」

 

「三日たったら?」

 

「その間に、どうするか決めます」

 

「決まらんかったら?」

 

 里奈は少し迷ってから答えた。

 

「出ていきます」

 

 女性はうなずいた。

 

「私は藤井春江。テルちゃんはハルさんいうけど、あんたは春江さんと呼んで」

 

「はい」

 

「テルちゃん」

 

「何?」

 

「その人の荷物、二階へ上げて」

 

「私が?」

 

「連れてきたんじゃろ」

 

 テルさんは露骨に嫌そうな顔をした。

 

「重いんよ。この中にパソコンまで入っとる」

 

「坂の下へ捨ててくる?」

 

 春江が里奈に尋ねた。

 

「自分で運びます」

 

 里奈はキャリーバッグを持ち上げた。

 

 玄関の上がり框で車輪をぶつけ、柱の角にも当てた。

 

 狭い階段を一段上がるごとに、荷物が膝へぶつかった。

 

 テルさんは、後ろから見ていた。

 

「手伝ってくれてもいいんじゃないですか」

 

「自分で運ぶ言うたじゃろ」

 

「普通、そこは手伝うでしょう」

 

「普通は、泊まるところを決めてから大阪を出るよ」

 

 里奈は言い返さず、残りの階段を上った。

 

 二階には六畳ほどの和室が一つあった。

 

 窓際にテルさんの布団が畳まれている。

 

 その隣に小さな衣装箱があり、上には古い携帯音楽プレーヤーとイヤホン、読みかけらしい文庫本が置かれていた。

 

 壁には何もない。

 

 写真も、カレンダーもなかった。

 

 部屋の隅に、りんごの入った籠だけがあった。

 

「本当にりんごが好きなんですね」

 

「りんごを毎日食べると、頭がよくなるんよ」

 

「初めて聞きました」

 

「私が小学校のとき、毎日食べとったら成績がよかった」

 

「それだけでは証明になりません」

 

「大阪の人は、すぐ証明したがるねえ」

 

「大阪は関係ありません」

 

 テルさんは押し入れから薄い布団を出し、畳の上へ置いた。

 

「そこに敷いたらええよ」

 

「テルさんは、いつからここに?」

 

「何が?」

 

「いつから、この家に住んでいるんですか」

 

「前から」

 

「何年前ですか」

 

「忘れた」

 

「家賃はいくら払っているんですか」

 

「聞きたいことが多いね」

 

「三日後には出なければいけないので、参考にしたいんです」

 

 テルさんは衣装箱の上から音楽プレーヤーを取り、イヤホンのコードをほどいた。

 

「一か月一万円」

 

「安いですね」

 

「買い物と掃除もする」

 

「それで一万円になるんですか」

 

「ならん月もあるよ」

 

「どういうことですか」

 

「ハルさんが病院へ行くときは一緒に行く。夜中に足が痛うなったら起こされる。庭の鉢を動かす。雨が降ったら洗濯物を入れる」

 

「それは仕事では?」

 

「仕事にしたら、一万円では足りんね」

 

「では、なぜ」

 

「私もここに住みたいけえ」

 

 テルさんは片方のイヤホンを耳へ入れた。

 

「ハルさんも、一人で住みたくない。でも誰かと暮らしとると言うと、面倒を見る人がおると思われる。私はハルさんの面倒を見とらんし、ハルさんも私の面倒を見とらん」

 

「でも、お互いに助けていますよね」

 

「たまにね」

 

「それを一緒に暮らすと言うんじゃないですか」

 

 テルさんはもう片方のイヤホンも耳へ入れた。

 

「難しいことは、晩ご飯のあとにして」

 

 音楽を再生すると、布団の上へ仰向けになった。

 

「今から寝るんですか」

 

「昼寝」

 

「春江さんは、昼まで寝る人はいらないと言っていました」

 

「もう昼過ぎじゃけえ」

 

 テルさんは目を閉じた。

 

 里奈は何か言おうとしたが、やめた。

 

 キャリーバッグを開き、着替えを取り出した。

 

 三日分どころか、一週間分は入っている。

 

 大阪の部屋を出るとき、何日留守にするか決められず、手当たり次第に詰めた。

 

 窓を開けると、家々の屋根の向こうに海が見えた。

 

 駅前から見た海より細く、建物の間へ挟まっている。

 

 船が通るたび、その細い海がゆっくり動いた。

 

 下の階から、春江の声がした。

 

「テルちゃん、買うてきたりんご、傷んどるよ」

 

 テルさんは目を閉じたまま答えた。

 

「傷んどるとこ取ったら、食べられる」

 

「一つはあんたが食べんさいよ」

 

「頭がようなりすぎる」

 

「元が元じゃけえ、心配せんでええ」

 

 里奈は思わず笑った。

 

 テルさんが片目を開けた。

 

「何がおかしいん?」

 

「仲がいいんですね」

 

「よくないよ」

 

 下から春江の声がした。

 

「聞こえとるよ」

 

「耳だけはええんよ」

 

 テルさんはまた目を閉じた。

 

 夕食は、カレーになった。

 

 里奈は春江から渡されたエプロンを着け、台所に立った。

 

 冷蔵庫には豚肉が少しと、玉ねぎ、人参、使いかけの生姜があった。

 

 じゃがいもはなかった。

 

「買ってきましょうか」

 

「坂を下りるん?」

 

「スーパーまで行けば」

 

「帰ってきたら、晩ご飯が夜中になるよ」

 

 春江は台所の椅子に座り、里奈の手元を見ていた。

 

「じゃがいもなしで作ります」

 

「さっきまで、カレーなら作れる言うとったのに」

 

「じゃがいもがないとは思いませんでした」

 

「あるもので作るんが料理じゃろ」

 

 里奈は玉ねぎを切り始めた。

 

「春江さんは、テルさんとどうやって知り合ったんですか」

 

「買い物」

 

「最初から頼んだんですか」

 

「商店街で、あの子が喫茶店におったころにね。私が牛乳を二本買うたら、家まで持っていこうか言うた」

 

「親切だったんですね」

 

「違うよ。三百円くれ言うた」

 

 里奈は包丁を止めた。

 

「最初からですか」

 

「知らん人の牛乳を、ただで持って上がるほど暇じゃない言うてね」

 

「テルさんらしいですね」

 

「三百円払うたら、次の週も来た。頼んでもないのに」

 

「それからずっと?」

 

「途中から、帰らんようになった」

 

 春江は何でもないことのように言った。

 

「どういうことですか」

 

「ある晩、雨がひどう降ってね。泊まっていけ言うたら、次の日もおった。その次の日も」

 

「追い出さなかったんですか」

 

「三日たったら出ていけ言うたよ」

 

 里奈は振り返った。

 

 春江は里奈を見ず、玉ねぎの皮を一枚、指先で拾っていた。

 

「それで何年いるんですか」

 

「忘れた」

 

 テルさんと同じ答えだった。

 

「では、私も三日を過ぎたら——」

 

「あんたは出てもらうよ」

 

 春江はきっぱり言った。

 

「テルちゃん一人で、十分ややこしいけえ」

 

「分かっています」

 

 里奈は鍋へ肉を入れた。油のはぜる音が台所に広がった。しばらくして、玄関で引き戸が開いた。

 

「テルちゃん、おる?」

 

 女性の声だった。

 

 二階から下りてきたテルさんが、玄関へ向かった。

 

 五十代ほどの女性が立っていた。

 

 買い物袋は持っていない。

 

 用事があるようにも見えなかった。

 

「三十分、ええ?」

 

「晩ご飯までなら」

 

 女性は里奈と春江を気にしている様子だった。

 

「ここじゃ、ちょっと」

 

「ほんなら外へ出ようか」

 

 テルさんはつっかけを履いた。

 

 女性が小銭入れを出す。

 

「今日は五百円払う」

 

「三百円でええよ」

 

「長うなるかもしれん」

 

「長うなったら、途中で帰る」

 

 テルさんは女性と一緒に出ていった。

 

 里奈は鍋を混ぜながら、玄関を見た。

 

「何の相談でしょう」

 

 春江が眉を上げた。

 

「それを聞くん?」

 

「気になっただけです」

 

「テルちゃんは、人の話を持って帰らんよ」

 

「春江さんにも話さないんですか」

 

「私にも話さん。あの子は自分の話もせんけど、人の話もせん」

 

 春江は杖をつき、台所から出ていった。

 

 玄関の外では、もう二人の声は聞こえなかった。

 

 里奈はカレーの味を見た。

 

 少し薄かった。

 

 ルーを足そうと箱を探したが、残っていない。

 

 塩を入れるべきか、醤油を入れるべきか迷った。

 

 大阪で一人暮らしをしていたとき、味が薄くても濃くても、食べるのは自分だけだった。

 

 誰かに食べてもらう料理を作るのは、いつ以来か思い出せなかった。

 

 三十分ほどして、テルさんが帰ってきた。

 

「早かったですね」

 

「三十分じゃけえ」

 

「その人、安心したんですか」

 

「知らんよ」

 

「話を聞いても、分からないんですか」

 

「安心したかどうかは、あの人が決めることじゃろ」

 

 テルさんは台所をのぞき込んだ。

 

「カレー?」

 

「最初からそう言っています」

 

「じゃがいもは?」

 

「ありませんでした」

 

「りんご入れたら?」

 

「入れません」

 

「頭がようなるのに」

 

「カレーを食べてまで成績を上げる必要はありません」

 

 テルさんは笑い、食器棚から皿を三枚出した。

 

 食卓にカレーが並んだ。

 

 春江は一口食べ、皿の中の玉ねぎを箸で裏返した。

 

 テルさんは湯気に顔を近づけたまま、二口目を食べた。

 

「どうですか」

 

 里奈は耐えきれずに尋ねた。

 

「何が?」

 

「味です」

 

「カレーの味がするよ」

 

 テルさんが答えた。

 

「おいしいかどうかを聞いているんです」

 

「食べられる」

 

「それは、おいしくないという意味ですよね」

 

 春江が二口目を食べた。

 

「じゃがいもがないね」

 

「それは作る前から分かっています」

 

「里奈ちゃん」

 

「はい」

 

「明日は肉じゃがにせんさい」

 

「じゃがいもがありません」

 

「買いに行けばええじゃろ」

 

 春江は初めて、少し笑った。

 

 食事を終えるころには、外は暗くなっていた。

 

 窓の向こうに、海沿いの明かりが見える。

 

 電車が通る音が、坂の下から遅れて届いた。

 

 里奈の携帯電話には、大阪の元同僚からメッセージが一件入っていた。

 

 〈少しは落ち着いた?〉

 

 里奈は返信を打とうとして、やめた。

 

 何と書けばよいのか分からなかった。

 

 尾道にいること。

 

 知らない女の家でカレーを作ったこと。

 

 三百円で人の話を聞く女性と同じ部屋で眠ること。

 

 どれも説明すればするほど、自分が何をしているのか分からなくなる。

 

 風呂を最後に済ませ、二階へ上がった。

 

 テルさんは布団に入り、音楽プレーヤーを枕元に置いていた。

 

「朝とは違う曲ですね」

 

「グッドナイト・ベイビー」

 

「それも意味を知らないんですか」

 

「夜に聞く歌じゃけえ、それでええよ」

 

 小さな音がイヤホンから漏れていた。里奈は隣へ布団を敷いた。

 

「テルさん」

 

「何?」

 

「私は三日後、どうすればいいと思いますか」

 

「知らん」

 

「少しくらい考えてくれてもいいでしょう」

 

「三百円払う?」

 

 里奈は枕元の鞄から財布を取り出した。

 

 本当に百円玉を三枚、畳の上へ置いた。

 

 テルさんがイヤホンを外した。

 

「何を聞いてほしいん?」

 

 里奈は答えようとした。

 

 仕事のことか。大阪の部屋のことか。

 

 誰にも連絡せずに来たことか。

 

 自分でも理由を説明できないまま、帰りたくないと思っていることか。

 

 何から話せばよいのか分からなかった。

 

「三日後、ここを出たくありません」

 

 ようやく、それだけを言った。テルさんは黙っていた。

 

「何か言わないんですか」

 

「聞くだけじゃけえ」

 

「それでも、最後には何か言うでしょう」

 

「まだ三十秒よ」

 

 里奈は畳の上の三百円を見た。

 

 そして、大阪で仕事を辞めた日のことを話し始めた。