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『 ミセス 』
第六章 春の帰り道
名刺の隅に小さく印刷されていた住所を地図アプリで確かめ、容子は小橋の暮らす分譲マンションの前にたどり着いた。
迷わずに来られたはずなのに、実際にここまで歩いてきた時間は、ひどく長く感じられた。
小橋の部屋は、最上階に近い九階にあるはずだった。
以前、何気ない会話のなかで階数を聞いた覚えがあった。
エントランスの前で足を止める。
部屋番号までは知らず、インターホンで呼び出すこともできない。
帰ろうかと迷っていると、ちょうど住人が外へ出るために自動ドアを開けた。
住人の後について入るのは、いわゆる「共連れ」だ。
いけないことだと分かっていながら、容子は一瞬のためらいを押し切った。
足早にエレベーターへ向かう。エレベーターには、居住階への移動を制限する認証装置は見当たらなかった。容子は九階のボタンを押し、そこで降りた。
廊下の表札をひとつずつ確かめながら進むと、L字型に左へ折れた先の一番奥に、「小橋」と記された真鍮の表札があった。
フロア全体は奇妙なほど静まり返っており、自分のヒールが床を叩くコツコツという乾いた音だけが妙に大きく響いた。
容子の身体のなかで、あのホテルの夜と同じ、あの不気味で大きなリズムが、音もなく激しくぶつかり合っている。
今夜はもしかすると、小橋に会って病状次第では、家に帰れなくなるかもしれない。
それとも何も言わずに引き返すべきなのか――そんな迷いを頭の片隅に抱えながら、L字型の角を曲がろうとしたまさにその瞬間、それまで彼女の頭の中でぐるぐると組み立てられていた考えや覚悟が、まるで真っ白な霧のように一瞬で消え去った。
小橋の部屋の玄関ドアが音もなく開き、そこから女性の足元がスルスルと出てきたのだ。
共用廊下の照明は人感センサーで点灯したばかりで、白い光が床に細長く伸びていた。
容子は反射的に、バッグの持ち手を握りしめたまま、すぐ傍らの非常階段の壁の陰へと自分の身体をひそませた。
一瞬、あの画廊で小橋と親しげにしていた女性ではないかと思った。
容子が息をひそめて見守っていると、女性は袋を持ち直した拍子に横顔が見えた。
見覚えのある顔は、紛れもなく知子だった。
丁寧に整えられていたはずの化粧はすっかり落ち、男物のカーディガンを羽織っただけの知子は、片手に空き容器を入れた袋を持ち、ごみを出しに行くところらしく、急いでスリッパをつっかけた足元が頼りなく見えた。
容器が袋の中でかすかに音を立てる。
知子は袋を持ち直し、廊下の先へと歩いていった。
小橋の部屋のドアは、彼女の背後で静かに閉まった。
いつか満員電車の中で知子が言った、「会社では絶対に見せたことのない顔」という言葉が、容子の脳裏で何度も何度も反芻された。
一体、二人の間にいつからどんな経緯があったのか、知る術もないし、知る必要すらなかった。
小橋にしても、知子にしても、容子に自分の行動の許可や承諾を得る必要など、最初から一切なかったのだ。
容子はゆっくりと足を進め、完全に閉ざされたドアの前に立ち、そこに掲げられた「小橋」という真鍮の表札をじっと見つめた。
見つめながら、彼女は心のなかで問うていた――「人生で本当の意味で『輝く』ためには、こういうふうに自分の大切な何かを次々と踏みにじっていくような真似まで、しなければならないものなのだろうか」と。
あのホテルへ誘われた夜、小橋にも当然のように帰るべき場所があり、その部屋には、自分と同じように泥臭く、しかし巧妙に取り繕った生活の現実が待っていたのだ。
そう思いながら、容子はハンドバッグの中から、画廊で持ち帰ってしまった『ラーク』の箱を取り出した。
箱の口は開いたままで、先ほど喫茶店で一本吸ったぶんだけ中身が減っていた。
共用廊下で火をつけるべきではないと、容子にも分かっていた。
それでも今は、そうした常識を守る気持ちさえ、どこかへ遠のいていた。
容子はそこからもう一本を引き抜き、同じく持ち帰ったライターで火をつけた。
口の中いっぱいに広がる耐えがたいほどの煙草の苦味が、浮ついた夢のような幻想を容赦なく引き剥がし、彼女を現実の「家庭の主婦」という泥臭い場所へと引き戻していくようだった。
知子が小橋の部屋にいたのは、偶然ではなかったのだろう。
あの画廊で小橋と親しげにしていた若い女性と、知子がどうつながっているのかは分からない。
容子が確かに見たのは、知子が小橋の部屋から出てきたということだけだった。
それでも、あの日、知子が語った年上の男のことと、今目の前で見た光景を重ねると、二人の間に何かがあると考えずにはいられなかった。
もちろん、すべてを確かめる術はない。
それでも今の容子には、そう考えるほかに気持ちを整理する方法が見つからなかった。
そのことに気づかなかった自分の愚かさが、たまらなく惨めで、そして笑えた。
もし、あの時すべてに気づいていたなら、喫茶店であんなふうに「電球みたいな男ね」などと軽口を叩いて知子をからかったりはしなかっただろう。
しかし、不思議と知子を責め立てたいという気持ちは、心のどこにも湧いてこなかった。
なぜなら、あの夜、もし自分が小橋の誘いにそのまま流されてあのホテルの部屋のドアをくぐっていたなら、今あの部屋の中から出てきたのは、知子ではなく、ほかならぬ自分自身だったかもしれないのだから。
よくよく考えてみれば、容子は小橋の芸術的な才能や、その刹那的な生き方に心から深く共感していたわけではなかった。
現に、あの個展の開かれた画廊で彼女の頭を支配していたのは、小橋の作品の良し悪しなどではなく、あの受付にいた若い女の存在であり、自分以外の誰かが彼の領域を占めているという嫉妬心にすぎなかった。
知子がどういう思いでそこにいるのかは分からないが、少なくとも小橋の自信や才能のすべてを本当の意味で理解し、それを支えるだけの覚悟など、今の容子には最初からなかったのだ。
エレベーターで一階のロビーへ降りると、容子は建物の隅にある共用の郵便受けのコーナーへ向かった。
小橋の名前が記された郵便受けの前で足を止める。
天井の隅には防犯カメラの小さなレンズがあり、こちらを見ているようだった。
容子は一度息を吐き、バッグから小さな封筒を取り出した。
画廊から持ち帰ってしまったライターと、半分ほど残っている『ラーク』の箱を入れて封をし、小橋の名前が記された郵便受けの投入口へそっと滑り込ませた。
返すつもりで来たはずなのに、こうして手放してみると、彼とのつながりを自分の手で終わらせたような気がした。
もう二度と、世間の「浮気」や「不倫」といった薄汚い言葉におびえたり、仕事上の「デザイナー」という呼び方に無駄なためらいを感じたりするような、そんな不安定な日々を送る必要はもうないのだと、彼女は自分に言い聞かせるように思った。
マンションの自動ドアをくぐって外の世界へ出ると、夜の闇のなかから、ほんのりと春の草花を含んだ湿った香りが鼻腔をくすぐった。
冷たい夜風が、歩道脇に落ちていた地域情報紙を拾い上げ、まるで踊り子のようにアスファルトの上で激しく舞い踊らせている。
駅前で配られたその紙は、誰かに拾われることもなく風にさらわれていった。
あてどなく風にもてあそばれているその紙の姿を見ていると、ここ数日間の、自分の意志を持たずにただ流されていただけの愚かな姿そのものに見えてきて、急に腹立たしさがこみ上げてきた。
――どんな家庭であれ、わざわざ波風を立てるような真似はしない方がいい。
一旦立った波風というのは、そう簡単には元の凪には戻らんものだからね……。
岩本のあの時の言葉が、ふと耳の奥でよみがえる。
結局のところ、自分の人生には最後まで大きな波風など一つも立たなかった。
自分はいったい、あの数日間のあいだに、何を手に入れ、何を失おうとしていたのだろう。
日々の生活のなかで底なしに広がり続ける心の空白を、他人のぬくもりで無理やり埋めようとしていただけだったのか。
それとも、一人の女として、自分の体に新しい命を宿せないかもしれないという不安から、ただ目を背けて逃げ出したかっただけなのだろうか。
世間体という名の安全な檻から逃れようとあがいた果てに行き着いたのは、結局のところ、こんな中途半端な泥沼のありさまだった。
それでも、自分の人生が破滅的な嵐の中に自ら飛び込むこともなく、心も身体も決定的な傷を負わずにここまで済んだのは、皮肉にも、自分より先により激しい嵐の中へと飛び込んでいった知子という存在の背中を、間近で見せつけられたからにほかならなかった。
――同じような真似をされたら、こちらの立つ瀬がないわよ……。
入社式の日のあの瞬間、一瞬だけ鋭く光らせた知子の目を思い出す。
容子は自分のハンドバッグから小さめのハンカチーフを取り出し、頬を伝う冷たい涙を乱暴に拭い去った。
そのハンカチーフは、あのホテルの近くの喫茶店で、小橋が自分の指先の火傷の手当てをするために使ってくれた、あの時のものだった。
「……もう、こんなものをいつまでも持っている理由なんて、どこにもないわ」
拭っても拭っても、次から次へととめどなく溢れ出てくる涙を止められなかった。
何が悲しくて自分はこんなところで泣いているのだろう。
小橋の裏切りに対する悔しさなのか、それとも、知子の圧倒的な生き方に完全に負けてしまったという敗北感からなのか……。
命を懸けたわけでもなければ、夫の範夫と本気で離婚したいと思ったわけでもなかった。
今夜家に帰り、この涙を綺麗に拭きさえすれば、明日になれば元の、退屈で平凡な現実の生活が何事もなかったかのように待っているだけなのだ。
結婚という選択そのものが根本的な間違いだったとは思わない。
夫の範夫は、世間の男たちのように特別に自信満々に見えるわけでもなければ、目の前の女性を言葉巧みに褒めちぎるような器用さも持ち合わせていない。
それでも、そんな不器用な夫であっても、かつてふとした瞬間に、小橋が容子に与えたのと同じような、まっすぐで温かい輝きを自分に向けてくれたことがあったからこそ、彼女はこの人と一緒に生きていこうと決めたのだった。
あの日の夫の瞳のなかにあった輝きをもう一度だけ信じて、これからの長い日々を、やっぱりこの男と一緒に歩んでいくしかないのだと、容子は心の底から納得した。
「バカヤロウ!」
そう言って、容子は涙で濡れたハンカチを、夜風のなかで激しく舞い踊る地域情報紙めがけて、思い切り力任せに投げつけた。
風にもてあそばれた薄い紙は、ハンカチをするりとかわすようにしてアスファルトの車道を横切り、まるで左右に身体を揺らすかのようにして、やがて街灯の光の届かない闇の向こうへと消えて見えなくなった。
投げたハンカチは歩道の端に落ちていた。容子は拾いに戻らなかった。
ふと、歩道の脇を見上げると、夜の闇に沈む街路樹の固い枝々が、厳しい冬を耐え抜いた末の、瑞々しい新しい小さな芽をふくらませ始めているのが見えた。
街灯のオレンジ色の明かりに透かされて、それらの新しい命のシルエットは、春の夜風に吹かれて心地よく揺れていた。
容子は、そっと自分のあたたかなお腹のあたりに右手を当て、まるで何かを慈しむように、ゆっくりと円を描くようにさすった。
不思議なことに、あんなに遠く感じられていたはずの自宅の温もりと、待っているはずの範夫の存在が、なぜか急に、たまらなく懐かしく、愛おしいもののように思えて仕方がなかった。
(了)
