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『 ミセス 』

 

第五章 輝きの正体

 

数日後、小橋から予告されていた個展は、会社から歩いてほんの十分ほどのところにある、小さな個人の画廊でひっそりと開催されていた。 

 

本当は、足を踏み入れるつもりなど毛頭なかった。

 

もう二度とあの男に関わるまいと、昨夜のうちに心の中で固く誓ったはずだった。

 

それなのに、定時を過ぎ、パソコンを閉じてオフィスを出た瞬間、容子の足はなぜか、吸い寄せられるようにその画廊のある方角へと向かっていた。 

 

画廊の前のガラス窓の外を、会社帰りの会社員たちの大きな流れに紛れながら、何度も通り過ぎる。

 

歩道には自転車が並び、会社帰りの人々が足早に行き交っていた。

 

意を決して中に視線を走らせると、画廊の内部は奥に細長く伸びており、中央には白いパーテーションの仕切りが立てられていた。

 

平日の夕方だというのに、意外と多くの来客で賑わっているようだった。 

 

中央の仕切りの左側のスペースに、見覚えのある小橋の背中が見えた。

 

そのすぐ傍らには、上品なスーツに身を包んだ見知らぬ若い女性が立っており、まるで恋人同士のように楽しげに小橋と言葉を交わしていた。 

 

小橋がふと退屈そうにテーブルの上の『ラーク』の箱から一本を取り出してくわえると、箱をそのままテーブルに戻し、画廊の入口脇に設けられた屋外の喫煙スペースへと歩いていった。その仕草を予測していたかのように、傍らの女性も自然に後を追い、すかさず手元のライターを取り出して、ごく慣れ親しんだ手つきで火を差し出した。

 

 ――あの夜、自分が初めて震えながら火をつけたのと同じように。 

 

そう思った瞬間、容子の視線は険しく凍りついた。

 

その怒りに似た衝動に突き動かされるようにして、彼女は重いガラスのドアを思い切り押し開けた。

 

「あっ、やあ」 

 

入口から入ってきた容子の姿に真っ先に気づいた小橋は、驚いたように手にしていた煙草を指定喫煙場所の灰皿に押し消し、何食わぬ顔で軽く手を振って声をかけてきた。 

 

傍らに立っていた受付の女性も、いかにも仕事上の愛想笑いといった様子で、ニコリと容子を見つめた。 

 

「おかげさまでね、思っていたよりもずっとたくさんの方に足を運んでいただいてさ」 

 

「……素敵な作品ばかりね。ゆっくり見せてもらうわ」 できる限り周囲に親しげで、かつ余裕のある大人の女性に聞こえるような声のトーンを意識して、容子は言い放った。 

 

「ねぇ、こっちの作品、すごくいいわ」 

 

小橋を少しでもあの女性から引き離したい一心で、容子はわざと大げさに感心してみせた。

 

その言葉に気を良くしたのか、小橋は嬉しそうにそばへ寄ってきて、作品のコンセプトについて熱心に説明し始めた。

 

しかし、その小橋の肩越しに、先ほどの受付の女性の、どこか冷ややかで、煙たそうな視線が容子の背中に突き刺さっているのが肌で感じられた。 

 

その時「これ、ささやかだけど、お祝いの品ね」 と言って、新しく客として入ってきた小橋の別の知人らしき男性が、抱えきれないほどの大きな包みを小橋の手に手渡そうとした。 

 

「あ、それ、私が代わりに預かるわ」 

 

小橋が両手をふさがれているのを見て、容子はタバコとライターを両手でそっとすくい上げるようにして受け取ると、誰にも見られないように素早く自分のハンドバッグの奥底へとしまい込んだ。

 

画廊を飛び出すようにして逃げ出したあと、容子は行き場のない感情を落ち着かせるために、駅前の少し古びた喫茶店に滑り込んだ。

 

入口には、今では珍しくなった喫煙可能店の表示が掲げられていた。

 

ブレンドコーヒーを一杯注文し、店の奥に設けられた喫煙室へ移る。

 

それが運ばれてくるまでの間、彼女はハンドバッグを開けて、先ほど小橋のテーブルから拾ってきたあの『ラーク』の箱を取り出した。

 

中から一本だけ引き抜き、ライターで火をつける。

 

見よう見まねでフィルターの部分をそっと吸い込んでみると、口いっぱいに広がったのは、肺を刺すような強烈な苦みと辛さだった。

 

思わずむせ返りそうになり、ハンカチで口元を押さえる。 

 

とてもではないが美味しいとは思えない。

 

しかし、その煙の向こう側には、まぎれもなく小橋の纏っていたあの独特の香水の匂いが混ざっているような気がした。

 

「あれ……容子!いつから煙草なんて吸うようになったの?」 

 

突然、目の前の席の向こうからかけられた声に驚いて顔を上げると、そこにはいつの間にか知子の姿があった。 

 

容子は慌てて灰皿の中で煙草の火を乱暴に揉み消すと、テーブルの上に転がっていたライターと箱を必死の形相でバッグのなかに隠した。

 

喫煙室を仕切るガラスの向こうで、店員が一瞬こちらを見たような気がして、容子はますます肩をすくめた。 

 

知子は、今日の会社の帰りに駅ビルでちょっとした買い物をしようとしていたのだが、目当てのものがどうしても見つからず、足が疲れたので休憩のつもりでこの店に入ったら、たまたま向こうの席で一人でむせ返っている容子の姿を見つけたのだと、身振り手振りを交えながら早口で説明した。

 

買い物の目当ては、ネットで見かけた限定品だったらしい。

 

何軒か店を回ったのに見つからなかったと、知子は不満そうに肩をすくめた。

 

便利な世の中になっても、欲しいものが見つからない日の徒労までは消えてくれない。 

 

上の空の相槌を打っているだけの容子の様子を察知したのか、知子は急に目を細め、 「ねえ……最近のあなた、なんだかすごく様子がおかしくない? 何か、私には言えないような大きな心配事でもあるわけ?」 

 

「あたしでよかったら、いくらでも話を聞いてあげるけどさ」と、さらに一歩体を乗り出して覗き込んできた。 

 

「そんなこと言うけど、知子こそどうなのよ?」 

 

「あたし?」 待ってましたとばかりに、知子の顔にパッと華やかな笑みが広がった。 

 

「実はね、最近、ちょっと付き合い始めた男がいるんだよね。……相手はバツイチの男なんだけどさ」 

 

付き合っている相手の具体的な名前こそ出さなかったが、知子の語る口調はどこか熱を帯びていた。 

 

「なんというか、職人肌というか、もの凄く頑固で我が強いのよ。細かいところにいちいちこだわりがあって、こっちが呆れるくらい面倒くさい男なんだけどさ」 

 

「それって、年の離れた人なの?」 容子が尋ねると、知子はしばらく天井の照明を見上げて考え込んだ後、「うーん、ひょっとすると、ひとまわりくらい上かもね」と言って、自分で自分のその年の離れっぷりに驚いたようにまたケラケラと笑った。 

 

「その人がね、いつも言うのよ。『俺はいつだって、人生のなかで激しく輝いていたいんだ』ってさ」 

 

「なにそれ、まるで電球みたいな男の人ね」 

 

容子が少しからかうように言うと、知子は急に真剣な表情に戻り、首を横に振った。 

 

「違うのよ、そういう電球の光とか、そういう形だけの話じゃなくてさ。要するに、いつだって自分が『今、この瞬間に本当に生きている』という強烈な実感が欲しいらしいのよ。もし万が一、自分がこれ以上輝けなくなったら、その時はもう生きている意味なんてないから、いっそ死ぬしかないって、本気でそういう目をしているの」 

 

「……そんな人、なんだか普通じゃないわね、危なっかしくて」 

 

「そこがいいのよ! あたし、ありふれた普通のサラリーマンの男なんて、見ているだけで吐き気がするくらい大嫌いだから」 

 

「それって、いつか大火傷するかもしれないわよ」 

 

「あたしも、自分でもそう思うわ。いつか痛い目を見るって、心のどこかでは分かってる」 

 

「でも……それでも、やめられないんでしょ?」 

 

知子はしばらく沈黙した後、ふっと小さく息を吐き、自嘲気味に笑った。

 

その笑顔につられて、容子もなぜか小さく笑い声を漏らしていた。

 

「ねえ……男の人が『輝く』って、一体どういうことだと思う?」 

 

その夜、いつもより少し遅くに帰宅してきた夫の範夫に向かって、容子は思い切ったように問いかけた。 

 

「急になんだよ……。そうだな、男が輝くっていうのは、例えば自分の仕事や、あるいはスポーツや何かに無我夢中で没頭している瞬間なんじゃないのか?」 

 

すべてを燃え尽くすように何かに打ち込んでいる時が一番男らしいんだよ、と、彼は上の空で答えながら、容子の身体に重く覆いかぶさってきた。 

 

「……何かに『燃える』ということと、本当に『輝く』ということは、きっと何か決定的に違う気がするの」 

 

容子がそう呟くと、範夫は面倒くさそうに顔を歪め、「じゃあ、なんだ、俺のことはどうなんだよ? 俺は今、輝いて見えるか?」と、不機嫌そうに聞き返してきた。 

 

容子は何も答えなかった。

 

暗闇の中で、天井の輪郭だけがぼんやりと浮かんでいた。 

 

「お前は一体どう思ってるんだよ?」 今度は返事を待つ代わりに、範夫の荒い息が容子の耳元に吹きかけられた。

 

小橋にあの古いホテルへと誘われかけたあの日以来、容子の生活のなかで、「デザイナー」という言葉は、触れてはならない劇薬のような響きを持つようになっていた。

 

日常の会話で誰かがその単語を口にするたび、彼女は自分のなかに隠しきれない浮気の証拠があるかのような、激しい罪悪感に襲われた。美容院の待合室で手に取った雑誌に「不倫」や「浮気」、「略奪」といった文字を見つけるたび、心は鉛のように重く沈んでいった。

 

ネットの記事にも、誰かの事情を短い言葉で裁く意見が並んでいる。

 

見知らぬ人たちが事情を知り尽くしたかのように断定する、その速さに容子は息苦しさを覚えた。

 

小橋との間にあったものを、自分では「浮気」だとか「不倫」だとかいう俗な言葉で片付けたくはなかった。

 

しかし、小橋のことを思えば思うほど、その関係全体が自分を蝕んでいくような罪悪感に苛まれることが、容子にはたまらなく悔しかった。

 

自分の内部に芽生えた割り切れない思いを、夫の範夫が知ったら、果たして理解してもらえるだろうか。

 

いや、絶対に無理に決まっている。

 

範夫の腕の中にいる今も、容子の心は別の場所に引き寄せられていた。

 

夫に抱きしめられているのに、心理的な距離は結婚生活が始まって以来、いちばん遠くまで開いてしまっている。

 

その事実が急に怖くなり、容子はいつもより強く、両手で範夫の背中を抱きしめた。

 

怖ければ怖いほど、その瞬間の陶酔の影は深く濃くなった。

 

夫の荒い息遣いと、その後に全身を覆う現実の身体の重みだけが、ほんの一瞬、引き裂かれそうな思考のすべてを忘れさせてくれた。

 

範夫が眠りについたあとも、容子はなかなか寝つけなかった。

 

枕元のスマートフォンを手に取り、何を見るともなくネットを開く。

 

最初に目に留まったのは、ベランダの小さな鉢でミニトマトやハーブを育てている人のブログだった。

 

土の配合や水やりの加減を写真つきで紹介し、芽が出た日には子供の成長を喜ぶような言葉を添えている。

 

続けて読んだ子育てブログには、保育園の帰り道に子供が拾った木の実の話や、寝かしつけに失敗した夜の愚痴が綴られていた。どれも特別な話ではない。

 

だからこそ、そこには容子が知らない、けれど自分もいつか手にできると思っていた暮らしの手触りがあった。

 

何気なく関連記事をたどっていくうちに、画面には「不倫の代償」という見出しが現れた。

 

別のブログには、妻の不倫を知ってしまった夫が、怒りと悲しみの間でどうにも身動きが取れなくなった心境が、飾り気のない言葉で綴られていた。

 

容子は指を止めた。記事を書いた男は、妻を責める言葉を並べる一方で、何が起きたのかを知りたい気持ちと、知ればもう元には戻れないという恐れの間を行き来していた。

 

画面越しの見知らぬ夫の苦しみが、急に遠い世界の話ではなくなった。

 

自分はまだ、誰かに知られて困るようなことをしたわけではない。

 

そう言い聞かせようとして、容子はかえって指先に力が入っていることに気づいた。

 

小橋に惹かれた気持ちを、夫を裏切ったことと同じだと決めつけるのは違う気がする。

 

けれど、何も起きていないのだから何も問題はない、と言い切ることもできなかった。

 

家庭菜園の記事に戻っても、子供の小さな手が土のついた苗を支える写真に戻っても、さっき読んだ夫の文章が頭から離れない。

 

容子は画面を消し、暗くなったガラスに映る自分の顔をしばらく見つめていた。

 

その週の金曜日、小橋は自分の代わりに他の知人のデザイナーに最終データと色校正の見本を届けさせ、会社には一切姿を見せなかった。

 

共有サーバーにデータを送るだけなら、わざわざ人を寄こす必要はない。

 

それでも小橋は、紙に出して初めて分かる色の沈みや文字の間隔を理由に、要所では今も実物の見本を確認したがった。 

 

その使いの者にそれとなく尋ねてみると、小橋は前日からひどい熱を出して自宅のベッドで寝込んでいるということだった。

 

容子はその言葉を聞き、胸の内に固めていた決意が別の形に変わるのを感じた。

 

会う約束をしていた店に行っても、小橋は来ない。

 

ならば、顔を見て話せる場所まで自分から出向くしかない。

 

そう考えた自分に、彼女は少し驚いていた。 

 

本当なら、今夜は、あのいつもの喫茶店で小橋と待ち合わせをし、あの画廊の受付にいた若い女性との関係について、思い切って問い詰めるはずだった。

 

そして、画廊で持ち帰ってしまった小橋の『ラーク』の箱とライターも、きちんと返すつもりだった。

 

返す品を包むための小さな封筒も、バッグの内ポケットに入れてきていた。

 

小橋が熱を出して寝込んでいると聞き、容子は電話をかけて様子を尋ねることも考えた。

 

しかし、声を聞けば、今夜こそ決着をつけようという決意がまた揺らいでしまう気がした。

 

会社を出る支度を整えるころには、容子の心の中で一つの明確な決意が固まっていた。 

 

自分の心の中に巣食っているこの中途半端な罪悪感を、今日ここで、一度きれいに形として決着をつけてしまいたかった。

 

 会社のトイレに立ち寄り、大きな鏡に映った自分の顔を、細部まで確かめる。

 

 ――満たされた女は、肌に張りが出て艶っぽくなり、そりゃあ美しくなるわよ……。 

 

あの時、知子が言っていた言葉が脳裏に蘇る。

 

しかし、目の前の鏡に映っているのは、どうひいき目に見ても、年齢よりも幾分老けて、疲労の色が隠せない、くすんだ主婦の顔だった。

 

トイレのドアを開けて外に出ようとしたまさにその時、「ちょっといいかな。この間は変なところを見せてしまって、本当にすまなかったね」と、背後から声をかけられた。 

 

振り返ると、そこに立っていたのは、頭の包帯がようやく取れたらしい岩本だった。

 

彼は、容子がトイレから出てくるのを、入口の壁の陰でじっと待ち構えていたらしかった。 

 

「私の家庭の事情なんてどうでもいいんだがね……。あの三人の子供のうち、一番上の子は前の妻が産んで、下の子二人は今の妻の連れ子なんだよ。一番上の子はもう反抗期で、どうにも私の言うことを聞かなくてね。あの日も、若い男とホテルに入ろうとしているのを見つけて、連れて帰ろうとしたんだ。ところが、相手の男ともみ合いになってしまってね。……まあ、これも私の言い分にすぎんが。どんな家庭であれ、わざわざ外に向かって波風を立てるような真似はしない方がいい。一度立った波風というのは、そう簡単には元の凪には戻らんものだよ」 

 

容子は何も言えず、ただうつむいたまま黙り込んでいた。 

 

容子には、岩本の話がすべて真実なのか、それとも自分の体面を守るために選んだ説明なのか、判断がつかなかった。 

 

「娘のこともそうだがね、人生は一度こじれると、取り返しがつかんのだよ」 

 

岩本のその重苦しい言葉に会釈だけを返すと、容子はまるでそこから逃げ出すようにして自分の席へと早足で戻った。

 

 こんな時、もし知子なら、岩本の胸ぐらに掴みかかって言い返してやったかもしれないと思い、彼女の席の方をチラリと見たが、知子の姿は見当たらなかった。