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『 ミセス 』

 

第四章 「まあだだよ」

 

「どうしたんだ、そんなに遅くなって。何かあったのか?」 

 

リビングのソファの隅でタブレットのニュース記事を読んでいた範夫が、画面から顔を上げ、不審そうな声を投げかけた。

 

 「……ううん、なんでもないわ。ちょっと会社の帰りに同期の子と寄り道しちゃって」 

 

台所で冷たいお茶を飲みながら、容子は頭の中であの場面を何度も反芻していた。

 

あの後、岩本はどうやって家路についたのだろう。

 

そもそも、自分があの場所で岩本と遭遇していなければ、こんなにみじめな気持ちにならずに済んだのに――。

 

そう考えては、胸の奥で重いため息を一つ吐き出した。 

 

「まったく、あの相沢とかいう男、口を開けば『納期には絶対に遅れないようにしますから』なんて調子のいいことばかり言いやがって。聞けば昔はウチの会社の取引先にいたとかいう札付きの厄介者らしいじゃないか。少しばかり景気がいいからって、ろくに現場のことも分からずに注文だけは一丁前に取ってきやがる。今度どこかで会ったら、俺の方からガツンと言ってやっておくかな」 

 

「いいのよ、そんなことしなくて。……あたしが自分で好きで選んでやってる仕事なんだから、あなたがそんなふうに首を突っ込んでくれたらかえってやりにくくなるでしょ?」 

 

範夫は面倒くさそうに大きなあくびを一つ噛み殺し、タブレットの画面を消した。 

 

「そういえばさ……『ラーク』って、どんな煙草なんだっけ?」 

 

不意に口から出たその問いに、範夫はきょとんとした顔をした。 

 

「どんなって……外車と同じで、ただの外国製の強めの煙草だけどさ、それがどうかしたのか?」 

 

「ううん、別に。ただ、ちょっと名前を聞いたから気になっただけよ」 

 

これ以上の詮索を恐れたのか、あるいは一日の仕事の疲れがピークに達していたのか、範夫はそれ以上深く追求することもなく、さっさと布団に入り込んでしまった。 

 

部屋の明かりを消した暗がりの中で、容子は再び小橋とのあの夜の出来事を思い出していた。

 

しかし、どんなに記憶を手繰り寄せようとしても、決まってこれからという最も肝心な場面に差し掛かると、あの場にいたはずのない岩本の土気色の顔がチラついて、すべてをかき消してしまうのだった。

 

あの時のボロボロの様子からすれば、次の出勤日から岩本が何食わぬ顔で会社に出てくることなど、到底できまいと容子は思っていた。

 

週が明けた月曜日、予想通り、岩本は会社を無断で欠勤していた。 

 

フロアのあちこちで、「なんでも自宅の階段から足を踏み外して、頭を大怪我したらしいよ」といった、根拠の曖昧な噂話がひそひそと囁き合われていた。 

 

「おい、容子くん。ちょっとこれ、岩本君の自宅に届けてやってくれないか」 

 

大事な取引先の来客対応で忙しい最中、相沢という営業の責任者から、岩本の自宅への見舞いの品を届けてくれと、半ば押し付けられるように頼まれてしまった。 

 

階段から足を踏み外して怪我をしたなどという、小学生でも見抜けるような見え透いた嘘をついている岩本のことを思い出すと、正直なところ、少しばかり腹立たしい気持ちすら湧いてきた。

 

しかし、よくよく考えてみれば、元はといえば岩本自身が自分でまいた種なのだ。

 

それも、高校生くらいの、自分の娘ほどの年齢の女の子と、あんないかがわしいホテルの前であんな醜態をさらしていたことなど――と考えて、容子はハッと我に返った。

 

他人の情けない不義理を責め立てる資格など、今の自分にはこれっぽっちもないのだと気づき、苦いものが胸の奥から込み上げてくるのだった。 

 

相沢に無理やり送られた住所を地図アプリで確かめ、容子は平日の昼下がり、ひっそりとした住宅街の一角にある岩本の自宅の玄関先へと足を運んだ。

 

画面を確かめながら歩いてきたはずなのに、玄関の前に立つと、ここから先は自分の判断で踏み込むしかないのだと思い知らされた。

 

見舞いの品を手にしたまま、容子はインターホンの前で一度だけ息を整えた。

 

インターホンを押すと、しばらくして、頭のてっぺんからぐるぐると白い包帯を痛々しく巻き付けた岩本が、パジャマ姿のまま重そうにドアを開けた。 

 

「……すまないねえ。まさか、会社からあんたがわざわざ見舞いに来てくれるとは思っていなかったよ……。もうすぐ女房のやつが買い物から戻ってくるはずなんだがね」 

 

「気を使っていただかなくて結構ですから、これは会社からのものです」 

 

事務的な言葉だけを告げてすぐにでも立ち去ろうと身構えたその時、岩本がかすれた声でぽつりと言った。 

 

「……あの夜、ホテルの前で見てたんだろ、あんた。いや、恥ずかしいというか、我ながら本当に情けない話だよ。まあいい、心配しなくてもいいさ。こう見えても私は、他人のプライベートな事情に首を挟むような野暮な真似をするほど暇じゃないつもりだ。……あんた達のあの夜のことは、誰にも言わずに黙っておいてやるさ」 

 

容子は、玄関の上がり框に立ったまま、まるでコンクリートで固められたかのように一歩も動けなくなった。 

 

「誰だって、人生には人には絶対に知られたくない秘密の一つや二つ、抱えて生きているもんだからねえ……」 

 

あの時は本当に何もなかったのだと、必死の思いで言い訳の言葉を探そうとしたが、喉の奥がつかえたように、どんな言葉も形にならなかった。 

 

その時、岩本の家の奥から、幼児たちの無邪気な笑い声が聞こえてきた。

 

壁の向こうでは動画の音声らしい高い声も一瞬聞こえたが、すぐに誰かが音量を下げたらしく、子供たちの生の笑い声だけが廊下に残った。

 

「もういいかい?」 

 

「まあだだよ!」 

 

「もういいかい?」 

 

「まあだだよ!」 

 

どうやら岩本の子供たちが室内でかくれんぼをしているらしかった。 

 

子供たちの無邪気な声は、廊下を伝って大きくなったり小さくなったりを繰り返しながら、時にはいたずらっぽく、またある時はどこか困り果てたような響きに変わって、容子の耳に届いた。 

 

「まあだだよ」――その言葉は、まさに今の容子の不安定な心境そのものを言い表しているようだった。

 

できれば、誰にも見つからないように、このままそっと時間の闇の中に隠れて見つからないままにしていてほしかった。 

 

「……どうぞお大事になさってください。失礼します」 

 

うわずった声でそれだけを絞り出すと、容子は逃げるように玄関の扉へと身を翻した。 

 

「まあだだよー!」 そう元気に叫びながら、五歳くらいの小さな男の子が、玄関の脇の廊下から容子の横を勢いよくすり抜けて庭の方へと走り去り、植え込みの陰に身を隠しながら「もういいよ!」と大きな声を上げた。 

 

その直後、今度は三歳くらいの女の子が、奥の部屋からドタバタと足音を立てて走り出てきた。

 

彼女は見知らぬ来客である容子の姿を見つけてぴたりと足を止め、キョロキョロしたあと、きょとんとした大きな目でじっと見つめてきた。 

 

そして、容子のトレンチコートの裾を小さな手でちょんちょんと引っ張りながら、「おばちゃん、おしえて」と、甘えるようにつぶやいたのだ。 

 

「おばちゃん」と呼ばれることに、心臓を鷲掴みにされたような妙な抵抗感とショックを覚えたが、ふと植え込みの方を向いた。

 

「ずるいぞ!」という男の子の声がして、先ほどの男の子が飛び出してきた。 

 

男の子は何か言いたげな顔で容子を見たが、ふと表の通りの方に誰かの姿を見つけたのか、「あっ、おねえちゃんだ!」と叫んで、そのまま玄関の方へと駆け出していった。 

 

――あの子だった。

 

あの日、ホテルの前で若い男を必死に止めようとしていた、あの制服姿の女の子だった。

 

「かくれんぼ」をしていたのは下の妹や弟たちだったのだ。 

 

「ねえ、今度は、おばちゃんに教えてくれる?」 容子は、まだ自分のコートの裾を離さない小さな女の子の頭に、そっと手を伸ばした。 

 

「うん、いいよ!」 

 

「ねえ、さっきそっちから走ってきたお姉ちゃんは、誰なの?」 

 

「あたしのお姉ちゃんだけど」 女の子は首をかしげると、そのまま家の中にトコトコと戻っていってしまった。 

 

外に出ようと身構えた時、背後の家の奥から、まるで怒鳴りつけるような荒々しい男の声が聞こえてきた。 

 

「一体、あの後どこをほっつき歩いてたんだ! お前はいつもいつも、いったいどういうつもりで生きてるんだ!」 

 

それは間違いなく、先ほどまでしおらしかった岩本の声だった。 

 

「だってお父さんの怪我が心配で・・・戻ってきたんじゃないのよ!」 

 

「怪我の心配をするくらいなら、自分の身の回りのことくらいちゃんとしろ! まったく、盛りのついた猫じゃあるまいし、みっともない!」 

 

「人のあとをコソコソつけたりするからいけないんじゃない!」 

 

「つけられて困るような軽はずみな真似をするからだろ!」 

 

岩本の怒鳴り声は、なぜか、夫の範夫が家で見せる不機嫌な声とどこか重なって聞こえた。

 

全くの勘違いだったのかもしれない。

 

岩本の家庭のドロドロとした現実を勝手に美化し、可哀想だと同情していた自分が急にたまらなく恥ずかしくなった。 

 

容子は、その恥を密かに詫びるような気持ちで、そっと玄関の扉の方向に向かって一礼した。

 

その時、閉まりかけた玄関のドアの隙間から、さっきまでかくれんぼをしていた小さな女の子が、再びひょっこりと顔を出した。 

 

「おばちゃん、またいつでも遊びにきてね!」 そう言って無邪気にニコリと笑うと、女の子はバタンと音を立ててドアの向こうに姿を消してしまった。