この作品は盗用禁止です。

AIに登録してネット監視していますので、ご注意ください。

 

 

『 3rd  尾道の坂を下って 』

 

第五章  海から届く手紙 

 

それから三か月が過ぎ、尾道にも冬が訪れた。

 

山々は薄い霧に包まれる日が多くなり、朝起きると軒先に氷が張っていることもある。

 

それでも海は凍ることなく、ゆったりとしたリズムで波を運び続けている。

 

里奈は市役所の仕事にもすっかり慣れ、毎日を生き生きと過ごしていた。

 

もちろん、すべての相談にすぐ答えられるようになったわけではない。

 

分からないことは先輩に確認し、手順を間違えないように何度も資料を見直す。

 

窓口が混み合えば焦ることもあるし、相手の言葉を十分に受け止められなかったのではないかと帰り道に考え込む日もあった。

 

それでも、以前のように自分を追い立てる気持ちは少しずつ薄れていた。

 

仕事を早く終えることだけでなく、目の前の人が何を困っているのかを理解しようとすることにも意味がある。

 

そう思えるようになったことが、里奈にとっては大きな変化だった。

 

窓口に来る人たちの顔と名前が少しずつ一致するようになり、世間話を交わす余裕も出てきた。

 

「里奈ちゃん、今朝は寒いのう」

 

「おはようございます。本当ですね。温かくしてくださいね」

 

そんな何気ない挨拶が、一日の始まりの温かな贈り物になっている。

 

ある日の土曜日、ハルさんの家の郵便受けに一通の手紙が届いていた。

 

見たこともない封筒だった。

 

午後にやってきた里奈が封筒を見ると「海外からの航空便ですよ。ダニエルさんからだ」と言って、封筒の角を傷めないように持ち直し、ハルさんとテルさんの前でそっと封を開けた。

 

—— 親愛なる 里奈さん、テルさん、ハルさんへ お元気ですか。オレゴンは今、雪が降り始めています。尾道の温かな日々が恋しくなる季節です。無事に故郷に帰り、毎日を過ごしています。仕事も始め、新しい生活が少しずつ軌道に乗り始めました。でも、毎日のように尾道の坂道を思い出します。

こちらでは先日、隣に一人暮らしのおばあさんがいることを知りました。足が悪くて買い物に行けないと聞き、テルさんのことを思い出しました。私は週に一度、彼女のために買い物をすることにしました。そして、三百円 —— いえ、こちらの通貨では少し額は違いますが、同じように「仕事として」受け取ることにしました。

最初は戸惑っていました。でも何度か続けるうちに、いつも笑顔で「ありがとう」と言ってくれるようになりました。先日は手作りのクッキーを渡してくれました。対等に頼り合うこと —— それがどれほど人の心を温めるか、身をもって感じています。テルさんからいただいた木のペンダントは、毎日身につけています。仕事で落ち込んだとき、手に触れると尾道の海風が感じられるような気がして、元気が湧いてきます。いつか必ず尾道に戻ります。そのときは、ゆっくりと坂道を歩きながら、たくさんお話ししましょう。

皆さんもお体を大切に。また会える日を楽しみにしています。ダニエルより —— 

 

手紙の紙面には、遠い土地の空気までが滲んでいるようだった。

 

雪の降るオレゴンと、潮風の吹く尾道。

 

暮らす場所も言葉も違うのに、誰かのために買い物をし、そのお礼を受け取るという小さな行為は、海を越えて同じ形を取っていた。

 

三人はしばらく、すぐには何も言わずに手紙の余韻を味わっていた。

 

手紙を読み終えたとき、座敷は静かに包まれていた。

 

ハルさんは目に涙を浮かべ、そっと手紙を胸に抱いた。

 

「よかったのう…… 本当によかった」

 

テルさんは何も言わず、ただ手紙を見つめていた。

 

木のペンダントの話の箇所で、ダニエルの顔が浮かんでいたのだ。

 

テルさんにとって、木を削って作った小さなペンダントは、特別な贈り物というより、旅に出る人に持たせたほんの気持ちだったのかもしれない。

 

けれど、遠いオレゴンでダニエルがそれを身につけ、仕事で落ち込んだときに触れていると知ると、その小さなものが海を越えて誰かの支えになっていることが、胸の奥に静かに染みてきた。

 

自分のしたことが、相手の暮らしの中でどんなふうに残っているのか。

 

普段なら、そんなことを考えて口にすることはない。

 

テルさんはいつものように何も言わず、手紙の文字をもう一度見つめた。

 

「人の心は、遠く離れていてもつながっているんですね」

 

里奈は窓の外を見る。霧に包まれた尾道の街が、いつもと変わらず穏やかに広がっている。

 

冬のあいだ、町の色は少し落ち着いていた。

 

坂道を吹き上がる風は冷たく、朝には肩をすぼめて歩く人の姿も見られた。

 

日なたに出ると、石段の表面がほんの少しだけ温かく感じられた。

 

坂道を行き交う人の上着も、日によっては前を開けたままになっている。

 

大きな変化ではない。

 

けれど、毎日同じ道を歩いているからこそ、そうした小さな違いに気づくことができた。

 

里奈は足を止め、石垣の隙間から伸びた芽を見つめた。

 

急いでいる朝でも、目に入ったものを一つ受け止める余裕を失いたくないと思った。

 

それから月日は流れ、桜のつぼみがふくらみ始める頃 ——。

 

それでも、海辺の光は日ごとに明るさを増し、路地の片隅では春を待つ草花が小さな芽をのぞかせていた。

 

季節が移るにつれて、同じ坂道も少しずつ違う表情を見せる。

 

里奈は通勤の途中でそれに気づくたび、ここで過ごす日々が確かに積み重なっていることを感じていた。

 

里奈は市役所の屋上に立っていた。

 

朝の光が街全体を黄金色に染め、瓦屋根のすき間から桜の木々が顔を出し始めている。

 

向島の緑が鮮やかになり、渡船がゆっくりと海を渡っていく。

 

「里奈ちゃん」

 

背後から声がする。

 

テルさんだ。

 

「あんた探したよ。手紙が来とるよ」

 

里奈は受け取る。

 

封筒には見覚えのある文字が並んでいる。

 

—— 皆さんへ 春が来ました。オレゴンの桜も咲き始めています。実は、来月の連休に尾道へ行くことになりました。短い時間ですが、またあの坂道を歩き、皆さんに会いたくてたまりません。テルさん、前に教えていただいた豆腐屋さん、ヤマおばあさんにも会いに行きたいです。そして今度は、私が少しだけお手伝いできたらと思っています。会える日を楽しみにしています。

ダニエルより —— 

 

里奈は手紙を胸に抱き、眼下に広がる景色を見つめた。

 

海はいつもと変わらず青く、街は穏やかに息づいている。

 

人と人との絆が、海を渡って確かにつながっている —— その事実が、心を温かく満たしてくれる。

 

「帰ってくるんじゃの」

 

テルさんがそばに立ち、海の方を向いている。

 

その横顔は、少しだけ笑っているように見えた。

 

「はい、きっと」

 

里奈はテルさんと並んで立ち、輝く海を見つめる。

 

風がそっと二人を包み、遠くから渡船の汽笛が柔らかく響いていた。

 

—— いつかまた、この坂道で。

 

その日はきっと、もうすぐそこまで来ている。

 

(了)