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『 ミセス 』
第三章 夜の境界
小橋が電話のなかで指定してきた店は、オフィス街から少し外れた裏通りにある、小さな隠れ家風の喫茶店だった。
「夜遅くなってもいいだろ」と言われたあの日以来、容子の胸の奥底には、まるで底なしの泉から湧き出る水のように、小さくて冷たい渦が絶えず巻き上がっているのを感じていた。
結婚している身でありながら、夫以外の男性と二人きりで夜の街でお茶を飲んだり、酒を酌み交わしたりすることに対して、彼女の中には言い知れぬ戸惑いと、背徳のスパイスが混ざり合っていた。
実際にやましいことなど、これっぽっちもありはしない。
仕事上の打ち合わせの延長線上にすぎないのだと頭では理解していながら、いざ二人きりで向き合うと、周囲の視線がまるで自分たちの秘密を暴き立てるかのように過剰に気になってしまう。
特に、相手が小橋のような独特の影と色気を持った男である時は、なおさらその緊張感が強かった。
指定された店に足を踏み入れると、小橋はすでに奥の窓際の席に陣取っていた。
こちら側の足音に気づくと、彼は片手を軽く挙げて合図を送る。
「まさか、来ないんじゃないかと思ってたよ」
冗談とも本気ともつかない口調でそう言いながら、小橋の長くてすらりとした指先が、テーブルの上に置かれた『ラーク』の赤い箱から一本の煙草を鮮やかな手つきで引き抜いた。
容子はテーブルの端に置かれていた小橋のライターに目をとめ、彼より先に手を伸ばした。
「今日は、私につけさせて」――自分ではごく自然にしゃべったつもりだったが、出た声は自分で驚くほど上ずっていた。
「今日は」という言葉に、特に深い意味を持たせたわけではなかったはずなのに、心のどこかでは、今日のこの時間だけは、いつもの退屈な日常とは完全に違ったものであってほしいと、強く願っている自分がいた。
慣れない手つきでライターの着火レバーを押し、何度か空振りを繰り返した末にようやく小さな炎が立ち上る。
小橋の差し出した煙草の先端に火を移すそのわずかな数秒間のうちに、容子は胸のあたりが早鐘のように高鳴るのを感じていた。
火を移すと、彼女はライターをテーブルの端へ戻した。耳のあたりが、カカッと熱いもので満たされていくのがわかる。
「今度さ、個人的に小さな個展を開くことになったんだ」
小橋は紫煙をゆっくりと天井へ逃がしながら、どこか照れくさそうに笑った。
バッグの中から取り出した真新しい案内用のパンフレットを広げ、目を輝かせながら自分の作品について熱っぽく語る小橋の顔を、容子はただじっと見つめていた。
いつの間にか、彼女の頭の中で、夫である範夫とこの小橋の姿が無意識のうちに比較されていた。
夫の範夫には絶対にないものが、この小橋には備わっていた。
それは、同性の目から見れば、時には傲慢や厭味として映るかもしれないほどの圧倒的な自信と、目の前の相手を言葉巧みに褒めちぎる天性の才能だった。
溢れんばかりの自己肯定感や自信というものは、一歩間違えば周囲の人間に激しい嫌悪感や気疲れを抱かせるものだが、小橋の場合、不思議とそれが嫌味にならなかった。
なぜなら、彼は常に相手を上手に立てるだけの余裕を持ち合わせていたからだ。
その時、小橋の指に挟まれた煙草の先端から、長く伸びた灰がポトリと落ちそうになった。
店の奥に設けられた喫煙室には小さな灰皿が置かれ、仕切りのガラスの向こうでは、ほかの客たちが静かにコーヒーを飲んでいた。
それに気づいた容子は、反射的に自分の手元の灰皿を引き寄せようとした。伸びてきた小橋の指先に自分の手が不意に触れ、その拍子に落ちかけた火種を含んだ灰が容子の指先に落ちた。彼女は小さく息をのんだ。
「あっ……」 小橋は軽く声を上げると、驚いたように容子の手をとり、そのまま自分のジャケットのポケットから白いハンカチーフを取り出した。
手近にあった冷たい水グラスの水滴をそれに染み込ませると、火傷でもしたかのように容子の指先を丁寧に包み込み、優しく冷やし始めた。
突然腕をとられているその数秒間、容子は指先の痛みなんてどこかへ吹き飛んでしまっていた。
それよりも、小橋の指先から伝わってくる体温や、間近で漂ってくる独特の香水の匂いの方に、意識のすべてが奪われていた。
「……大丈夫か?」 心配そうに覗き込んでくるその瞳に捉えられ、容子が小さくうなずくと、小橋はふーっと息を吹きかけてきた。
その微かな風が、耳のあたりを熱く火照らせていたものを、一気に頬全体へと赤く染め上げていくのが自分でもよく分かった。
気がつくと、目の前には小橋の真剣な視線が真っ直ぐに据えられていた。
「君ってさ、どう見ても若い頃からずっと、いわゆる『亭主持ち』の生活感なんて微塵も感じさせないよな」
そう言って容子を値踏みするように見つめる小橋の目は、仕事上の付き合いのそれとは明らかに違っていた。
「子供がいないせいかしら……」
普段なら他人の前では絶対に口にしないような、自分のコンプレックスの核心に触れるような話題すら、この瞬間の彼女にとっては、何の抵抗もなくすんなりと口から滑り出ていった。
少しずつ、自分がいつもの自分という枠組みから外れて、全く知らない場所へと滑り落ちていっていることを、容子は心地よいめまいと共に感じていた。
店を出ると、夜の街の空気に混じった春先の冷たい風が、火照った肌に心地よく感じられた。
並んで歩き出そうとした時、容子はごく自然な流れで、小橋の腕にそっと自分の手を絡ませていた。
指先の火傷の面倒を見てもらっているのだと言い訳をすれば、自分の中で何とか辻褄が合わせられた。
黙ったまま一定の足取りで歩き続ける小橋の隣で、容子の心の中では、このまま前へと力強く押し進もうとする衝動と、いや、ここで引き返さなければ取り返しのつかないことになると警告を発する理性とが、激しくぶつかり合う大きなリズムを刻んでいた。
その音のない激しい心の衝撃が最高潮に達し、思考が完全に白濁しかけたその時、ふと気がつくと、小橋の足取りはすでに、街角の少し古びたホテルの重厚な自動ドアの前に差しかかろうとしていた。
あまりの展開の急さに、容子の足が思わずもつれそうになり、小橋が慌ててその肩を支えようと腕を伸ばしたまさにその瞬間だった。
「――いい加減にしろってんだよ、お前は! いい年をして、恥ずかしくないのか!」
夜の静かな歩道に、まるでトゲのように鋭く突き刺さるような、若い男の怒鳴り声が響き渡った。
その罵声に続いて、「おい、やめなさい! 連れて帰る!」と、別の聞き覚えのある声が重なった。
振り返ると、そこに立っていたのは、ほかでもない、あの会社の経理部長・岩本だった。
容子は、まるで雷に打たれたかのように、その場で凍りついた。
岩本は、ホテルに入ろうとしていた制服姿の少女を連れ戻そうとして、若い男ともみ合いになっていたのだ。
「何だよ、あんた! さっきからコソコソつけ回しやがって!」
若い男はそう怒鳴り、岩本の胸元をつかんでホテルの外壁に押しつけた。
岩本も負けじと、「娘をどこへ連れて行くつもりだ!」と声を張り上げた。
「やめてよ、もう……ねえ、やめてってば!」
少女は泣きそうな顔で二人の間に割って入り、若い男の腕を必死に引き離そうとしていた。
暴れていた男は、突然目の前に現れた小橋と容子の存在に気づくと、ハッと動きを止めた。
そして少女の手を乱暴につかみ、「行くぞ!」と吐き捨てると、彼女を連れて闇の中へと駆け去っていった。
容子は反射的に、その場から逃げ出すように走り出した。
それまで何年もかけて、妻として、社会人として、あまりにも丁寧に、崩れないように積み上げてきたはずの生活のすべてが、あの瞬間にいっぺんに剥ぎ取られてしまったような、強烈な裸にされたような羞恥心に襲われた。
走りながら、夫である範夫に対する取り返しのつかない裏切りへの恐怖と、自分自身の愚かさに対する激しい嫌悪、そして行き場のない後ろめたさが、次から次へと津波のように押し寄せてくる。
容子は、それらの感情の重みからただ逃げ出すために、ハイヒールの音をアスファルトに響かせながら、ひたすら駅の方へと走り続けた。
