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『 ミセス 』
第二章 輝く男
「ちょっと、どこ見てるのよ」 途中の駅から乗り込んできた知子が、呆れたような、でも、どこか楽しげな声で言った。
自分と同い年の知子は、容子と同じ広告代理店の同期入社だった。
社内の落ち着いた雰囲気や、暗黙のうちに求められる地味な服装などどこ吹く風とばかりに、いつも周囲の目をはばかるような鮮やかな色の服や、少し派手めのアクセサリーを身につけて通勤してくることで、社内ではちょっとした有名人だった。
会社の服装規定は表向きずいぶん柔らかくなった。それでも、誰が何を着るかについての無言の圧力は、今も残っている。
知子はそうした空気を、最初から相手にしていないように見えた。
知子は、朝の混雑した車内で、まわりの乗客が思わず振り返るほどの大きな声で「いやだわ、こんなところで変な顔して」と言うと、すぐさま容子の耳元に顔を寄せ、 「さっきから会社では絶対に見せたことのないような、もの凄く複雑な顔してたわよ」 と小声で囁いた。
さらに、大げさに目を細めてさっき見た容子の表情を真似てみせ、一人でけらけらと笑い出す。
笑い終わると、知子は急に真顔に戻り、鋭い観察眼を光らせるように車内をぐるりと見回した。
「ねえ、もしかして、いい男でも見とれていたわけ?」
容子は、知子に動揺しているところを勘づかれまいと、慌てて目を泳がせた。
その視線を逃がした先には、先ほどまで観察していた中学生のグループがまだ居座っていたが、襟を直してもらっていた男の子は頭上の液晶広告に目を向けていて、残りの二人は、伏せ目がちに互いの気配を意識し合っているように見えた。
電車が次の駅に滑り込み、扉が開くと同時に押し出されるようにしてホームに降り立った知子は、雑踏の中を歩きながら、手鏡を取り出して自分のリップの直しかたを入念にチェックしつつ、突然話し始めた。
「ねぇ、知ってる?」
「なにを?」と、容子が振り向いた。
「ほら、世間でよく言うじゃない。満たされた女は、肌に張りが出て艶っぽくなり、そりゃあ美しくなるって、ハ・ナ・シ、よ」
「そんなの?」
「それとも、愛されすぎて毎晩ヘトヘトってところかしらね」
からかうような笑みを浮かべる知子の横顔を見ながら、容子は内心で、肌に張りがあって本当に艶っぽく見えているのは、自分ではなくむしろこの知子の方ではないかとと思った。
知子とは、奇妙な縁で結ばれていた。
それは会社の採用面接試験の日のことだった。
当時、容子が緊張しながら指定されたビルの面接会場に座って待っていた。
その頃、知子は、あろうことか同じビルで行われていた全く別の会社の面接会場へ迷い込んでしまったのだ。
面接官の奇妙な質問に戸惑いながらもようやく間違いに気づき、冷や汗を流しながら本来の会場に駆け込んできたのが、その時に済ました顔で遅れてやってきたのが知子だった。
入社式の後、同期の顔合わせの席で、知子も入社したことを知ったとき、容子は「あんな大失敗して、よくこの会社に入れたわね」と、驚き半分、呆れ半分で声をかけたのだ。
すると知子は、少しも悪びれる様子もなく、胸を張ってこう言い放ったのだった。
「応募者が、御社の面接会場で迷うような案内板作っているようでは、会社の信用問題にもなります。って言ったら面接官のウケが良かったみたいなの」
本当か嘘かわからないが、そう言ってケラケラと笑う知子を見て、容子は自分には絶対に真似できない図太さだなと感心したものだった。
人にはそれぞれ、その人に似合う色というものがある。
自分のような地味で目立たない人間が淡いパステルカラーだとするなら、知子は間違いなく原色に近い、鮮やかで強い色だった。
「それにしてもさっきの電車での容子の顔、とてもじゃないけど、結婚四年目の倦怠期真っ只中の主婦の顔じゃなかったわね。世の中の独身の女たちも、うかうかしてられないわ、本当に」
そう言って自嘲気味に鼻を鳴らすと、知子は通勤用のハンドバッグをひょいと頭の上に放り投げ、見事にキャッチしてから、「人生のチャンスは、いつだってこうやってしっかりつかまなきゃね」と、不敵な笑みを浮かべた。
二人が勤めている会社は、中堅どころの広告代理店だった。
主な取引先には地元の大手スーパーや商業施設が名を連ねており、日々の業務は新聞の折り込みチラシや特売用のカラーカタログに加え、店舗アプリの告知画像、ウェブ広告、SNS用の短い動画やバナーの制作まで幅広くなっていた。
紙の販促物がなくなったわけではない。
むしろ、紙とデジタルの両方で同じ情報を正確に出す必要があり、価格や開催日を一文字間違えただけでも、印刷物の回収や配信停止につながりかねなかった。
扱っている商材の性質上、世間の一般の消費者が目にするよりもずっと早い段階で、新商品の発売情報やセールの内情が社内に飛び込んでくるという、業界ならではの「うま味」もあった。
知子はその情報網をフル活用しているらしく、スーパーの仕入れ担当の社員や、印刷会社の営業マンをうまく手玉にとり、シーズンオフの売れ残りの上質な洋服やサンプル品などを格安で譲り受けているらしかった。
彼女がいつも流行の最先端を行くような派手めの洋服を着こなして出社してくるのは、そうした裏のルートがあったからこそだった。
知子は店頭に並ぶ前の商品情報や限定クーポンの話にも妙に詳しく、誰かが新しいサービスを話題にすれば、もう試したあとだという顔をする。
情報が速く回る時代になっても、それを誰より先に自分のものにする勘のよさは、彼女の昔から変わらない武器だった。
オフィスに足を踏み入れると、経理部長の岩本が、すでに社員全員の机をひとつひとつ、除菌シートと雑巾で丁寧に拭き回っているところだった。
共有デスクや会議室のモニター、誰もが触れる複合機の操作パネルまで、彼は一か所ずつ確かめるように手を動かしていた。
清掃業者が入る時間も決まっているし、社内には衛生管理の手順書も掲示されている。
それでも岩本は、自分のやり方こそが正しいと信じて疑わなかった。
岩本は社内でも古株の一人で、昔気質の、事あるごとに若い社員の小言を並べることで知られていた。
「まったく、近頃の若い連中は……。私らの若い頃は、朝の掃除一つとっても先輩から細かくやり方を叩き込まれて、それが当たり前の社会人としての嗜みだったんだよ。物を大切にする、環境を整える。そういう基本的なことが、今の若い人にはさっぱりできない。こうして私が代わりにやってみせると、『余計なことだ』とか『でしゃばりだ』とか言って、すぐに煙たがったり迷惑がったりする。そのくせ、自分では進んで何もしないんだから、救いようがないね」
その言葉は、近くの席で書類の整理をしていた容子に対して直接言って聞かせているというよりは、フロア全体にいる若い社員たち全員の耳に届くようにと、意図的に声を張り上げているようにしか聞こえなかった。
遠くの席からその様子を眺めていた知子が、さりげなく目配せをして、「ほうっておきなさいよ、あんな頑固ジジイの独り言なんて」という合図を送ってきた。
自分の机に座り、荷物を片付けてしばらくすると、知子がわざわざコーヒーカップを片手にやってきた。机の上にはノートパソコンと外部モニターが並んでいた。
知子はそのどれにも気を取られず、わざとらしいほど大きなため息をついて岩本の方を見た。
「あんなこと、わざわざ自分でやったって、ビル管理の清掃スタッフが毎朝きれいにやってくれてるじゃないのよ、ねえ。共有スペースの清掃記録だって管理システムに残っているし、衛生面で気になることがあれば総務に申請すればいいのに。あんなふうに、わざわざ人の机をねっとり拭いて回ってからに、まるで厭味の塊みたい……。あれであたしたちが明日から同じように自主的にやるとでも本気で思ってるのかしらね。おめでたい頭をしてるわ」
そう吐き捨てると、知子は自分の席に戻るやいなや、わざわざ綺麗に拭かれたばかりの机の上に、資料のファイルを乱雑に積み上げ、いたずらっぽく舌を出して見せた。
その後、他の社員たちが続々と出社してくると、岩本は先ほどと全く一言一句違わぬ文句を、まるで録音されたテープのように再び繰り返した。
容子と知子は、顔を見合わせるのを必死にこらえながら、手元の書類に目を落として肩を小刻みに震わせた。
容子の担当する業務は、一週間のスケジュールの中で、金曜日が最も忙しさのピークを迎える日だった。
定期的に発行される商業施設のPR誌や折り込みチラシのレイアウト、ウェブ広告や店舗アプリに載せる画像の最終校正が集中する。
社内の共有サーバーには何十ものファイルが並び、チャットには確認依頼が次々と流れ込み、オンライン会議の予定が隙間なく詰まっていた。
それでも、最後に文字や数字を見落とさず、媒体ごとの仕上がりを確かめる作業は、人間の目と判断に頼る部分が大きい。
社内のリソースだけではどうしても手が回り切らないため、多くの外部のフリーランスのデザイナーたちに仕事を委託しなければならない。
容子は、その外部のデザイナーたちとの契約条件の交渉や進行管理のほとんどを任されていた。
岩本がフロアの反対側で三度目の小言をはじめたまさにその時、外部のデザイナーとの連絡調整でデスクを離れていた容子に、同僚が小橋からの電話を取り次いでくれた。
小橋からは普段、業務用のチャットやメールでデータが届くことも多かったが、急ぎの変更や、文字では伝わりにくい感覚的な話になると、彼は決まって直接声をかけてきた。
さきほどの知子の悪ふざけを引きずっていたせいか、受話器を取る容子の声は、普段よりもワントーン高く、弾んだような響きになっていた。
「あ、容子、……今日の午後さ、ちょっと都合があってそっちには寄れなくなったんだ。もしよかったら、会社の帰りにどこかで落ち合えないか?」
こちらの返事の許可を取る間もなく、相手の都合だけを一方的に告げると、小橋は返事を聞くこともなく一方的に電話を切ってしまった。
相変わらず、勝手で、しかしどこか憎めないテンポだった。
外部のデザイナーたちの中でも、小橋邦夫はひときわ異彩を放つ存在だった。
社内での付き合いも一番古く、年齢はすでに四十代半ばに差しかかっていたはずだが、年齢特有の生活臭や疲労感のようなものが不思議と一切感じられない、垢抜けた華やかさが常にまとわりついていた。
小橋が実際に会社のオフィスに顔を出すのは、原稿の受け渡しや進行確認が必要な金曜日の午後くらいのものだった。
締切ぎりぎりにデータを送ってきたり、細かな打ち合わせを電話や喫茶店での立ち話だけで済ませたりすることも多かった。
金曜日という曜日は、ただでさえ業務が立て込んで慌ただしいのに、小橋の気まぐれに付き合わされて、会社の外でそのまま夕食やコーヒーを共にすることも、容子にとっては決して珍しいことではなくなっていた。
二年前に前妻と離婚して以来、小橋は「結婚なんて人生の墓場だよ、二度とするもんか」と、いつかの喫茶店の隅の席で苦笑いしながら語っていたことがある。
彼によれば、結婚という制度は、男と女が気の遠くなるような時間をかけて互いを試す、最も不毛で、しかしやめられないギャンブルのようなものだった。
「ギャンブルなんてさ、真剣にやってるうちはまだマナーもいいしスリリングでいいんだけどさ、そのうちずる賢くなって、わざと勝たしてやったり、あるいは勝たしてもらったり、お互いにわざと負けたり負けてもらったりするようになるだろ? そうやって夫婦がお互いにくだらない八百長をやり始めると、相手が次にどんな手を繰り出すのか、本当の手の内がさっぱり読めなくなっちまうんだよ。で、気がついたときには、お互いの考えてることなんて誰もわからなくなっていて、残された選択肢はただ一つ、さっさと別れることだけしかなかったってわけさ」
あのとき、小橋は煙草の煙を天井の染みに向かって吹き飛ばしながら、からからと乾いた笑い声を上げたのだった。
そういえば、一週間前にも小橋から電話があった。
その切れ際に、彼は「今度会うとき、少し夜遅くなってもいいだろ?」と尋ねてきたのだった。
何事においてもあらかじめスケジュールをきっちり決め、その通りに行動することに安心感を覚える容子には珍しく、あのときの返事は、承諾とも拒絶ともつかない曖昧なままになっていた。
そして今日、改めて小橋から電話があり、会社の帰りに会おうと告げられた。
受話器を置いた容子の脳裏に、今朝の通勤電車で見かけた中学生の姿がふと蘇ってきた。
あの真ん中のポニーテールの女の子は、これから先、ずっとあんなふうに自分の本当の気持ちを心の奥底に押し殺しながら、二人の男の子の間で揺れ動き続けるのだろうか。
その女の子の心理状態をそのまま自分の結婚生活に置き換えて考えてみた瞬間、なぜか胸のあたりが締め付けられるような、激しい息苦しさを覚えた。
