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『 カケハシ 』

 

第八章 カケハシ・マップの試行錯誤

 

十二月の半ばを過ぎ、前島敏夫とネット先の学生たちが作り上げた「カケハシ・マップ」が、ひそやかに、しかし確かな手応えを持って公開された。 

 

京都の街路樹は葉をすっかり落とし、冬の乾いた青空がどこまでも高く広がるようになる。

 

朝の冷気は肌を刺すように鋭いが、風待ち荘の二階に集まる五人の胸のうちは、以前のような澱んだ重たさから解放されていた。 

 

公開された地図アプリの画面には、京都の街を中心に、赤い点が一つ、また一つとポツリポツリと瞬きはじめていた。

 

それは何万ダウンロードという爆発的な数字ではない。

 

けれど、その一本の赤い点をタップすると、そこに小さなメッセージが浮かび上がった。

 

「今日、誰とも話さなかったから、ここで京都の端っこの天気について話したい」

 

「就活で嘘ばかりついていたら、自分が誰だか分からなくなった」 

 

そうした書き込みを見つけた誰かが会いに行き、話し、小さな約束を交わすたびに、地図の上には細い線が引かれていった。

 

遠く離れた者同士は、翻訳ソフトの力を借りながら、時に何時間もかけて言葉を交わし合う。

 

しかし、その道のりは決して順風満帆などではなかった。 

 

最初の一週間は、つまずきと摩擦の連続だった。

 

「思ってたんと違う……」 

 

ある夜、敏夫はタブレットの画面を机に投げ出すようにして、うなだれた。

 

「パリの美術学校に通う子と、翻訳ソフト越しにやり取りしてたんやけど、『あなたの作品には芯がない』みたいなニュアンスに訳されてしまって……向こうが激怒して、それきり連絡が途絶えてしもうた。俺の伝え方が悪かったのか、機械がおかしかったのか……もう、どこをどう直したらいいのか分からへん」 

 

部屋の隅で、電気ストーブの金属音が小さくチリチリと鳴る。

 

重苦しい静寂が下宿の空気を冷やした。 

 

それを聞いた裕也は、ゆっくりと首を振った。 

 

モーターのように急ぎすぎていた自分を反省するように、彼は静かに言った。

 

「……俺が最初に、全部を劇的に変えようと急ぎすぎたんだろな。すぐに結果を欲しがって、相手のペースを無視していた。違う国の言葉、違う境遇の人間同士なんだから、すれ違うのは当たり前や。……なあ、敏夫。相手のペースに合わせよう。翻訳の向こう側にいる生身の人間が、自分の言葉を受け止めてくれるまで、何度だって待てばいい。急いで分かり合ったって、そんな薄っぺらい絆はすぐに消えてしまうんやから」 

 

駿は、使い込んだ黒いノートの上に新しいページを開き、万年筆のペン先をあてがった。

 

「俺もだ。綺麗ごとな小説を書くのをやめて、一人ひとりに向けた手紙のような言葉を書く。どれだけ時間がかかってでも、その人の心に真っ直ぐ届く表現を探してみせるよ」 

 

それからの日々は、地道で、泥臭いものだった。

 

返事が来ない日もあった。

 

「やっぱりこんな怪しいもの信用できない」と、冷たい言葉を投げつけられてアカウントをブロックされることもあった。 

 

翻訳のシステムが誤作動を起こし、せっかく芽生えかけた信頼関係が音を立てて崩れ去る夜もあった。 

 

それでも、五人は歩みを止めなかった。 

 

裕也が外に行って風を呼び込み、駿が言葉を紡ぎ、敏夫がネットの海で繋ぎ目の糸を直し続ける。

 

もし誰かの心が折れそうになれば、佐伯恭一がその背中をどっしりと支え、北波茜が温かいお茶を差し出して前を向かせた。

 

数え切れないほどのすれ違いと、冷たい拒絶をくぐり抜けた、ある冬の夕暮れのことだった。 

 

ふいに、敏夫のタブレット端末が、乾いた通知音を響かせた。

 

「……あっ」 敏夫が息を呑み、画面を凝視する。

 

「どうした?」と裕也が身を乗り出す。

 

それは、あのパリの美術学生からのメッセージだった。 

 

長文の末に、翻訳を通さなくても伝わってくるような、不器用で、しかし真摯な文字が並んでいた。

 

 ——《ごめんなさい。あの時は、図星を突かれて怖くなって逃げてしまいました。あなたが何度も、私の拙い言葉を諦めずに翻訳し直して、メッセージを送り続けてくれたこと……それが何よりも嬉しかった。おかげで、自分の描く絵と、もう一度向き合う勇気が出ました。ありがとう》 

 

敏夫の指先が、わずかに震えていた。

 

「……届いた」 

 

彼は顔を上げ、仲間たちを見渡した。

 

その瞳には、うっすらと涙が光っていた。

 

「直接会えなくても、言葉の壁や機械の誤訳があったとしても……時間をかけて丁寧に紡いだら、ちゃんと心は届くんや」 

 

風待ち荘の二階に、小さく、しかし温かい歓声が広がった。

 

ここが最初の拠点だ。

 

世界中のどこかで、孤独のなかに震えながら、誰かが画面の向こうにそっと手を伸ばすのを待っている。

 

その事実が、彼らの背中を強く押していた。 

 

それぞれが、現実の足元を見つめ直し始めていた。 

 

恭一は実家の文房具店の帳簿をつけながら、父の背中を見て思う。

 

「家業を継ぐことを捨てるわけじゃない。ただ、自分の中に生まれた別の景色も、今は見てみたいんだ」と心に決めていた。 

 

茜は祖母の形見のノートをめくり、「待っているだけじゃなくて、自分から手を伸ばすんだ」と静かに誓っていた。

 

裕也は父親との静かな断絶を抱えながらも、自分の足でこの街を歩く覚悟を固めていた。 

 

駿は、誰かの言葉にならない思いをすくい上げるため、今日もノートにペンを走らせる。 

 

敏夫は、世界中の点と点を繋ぐ画面の前で、一通一通のメッセージに真摯に向き合い続けている。