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『 ミセス -2026- 』
第一章 春の気配
出勤を急ぐ夫の範夫を玄関で見送り、閉ざされた扉の向こうから消えていく足音を聞き届けてから、容子はゆっくりとリビングに戻った。
玄関のスマートロックが短い電子音を立てて施錠され、夫の出ていった気配だけが廊下に薄く残った。
朝の家事はまだ半分残っている。
洗濯機を回し、ダイニングテーブルの端に置き去りにされたままの湯飲みの茶殻を片付ける。
台所へ向かい、蛇口のシングルレバーを上げると、水が勢いよく流れ出し、ステンレスのシンクを叩いた。
濡れた皿をスポンジで洗いながら、ふと指先を伝う水の冷たさが、真冬のそれとは少し違っていることに気がついた。
かじかんで痛むような鋭さが薄れ、どこか柔らかさを帯びている。
皿を一枚ずつすすぎ、水切りかごに伏せていく。
水音が途切れずに響くあいだ、容子はその冷たさの変化を確かめるように、しばらく手を動かしていた。
テレビの朝のニュースで、どこかの庭園で紅梅が咲き始めたとキャスターが告げていたのを思い出した。
容子はその話を聞き流していたはずなのに、紅梅という言葉だけが妙に心に残っていた。
窓の外の木立はまだ冬の色を残している。
それでも、目には見えないところで季節は確かに動いているのだろう。
暦の上だけではなく、ようやく春という季節が、この街の隅々にまで確実に近づきつつあるのだと肌で感じる。
タオルで手を拭きながら、容子はリビングの窓から外を眺めた。
ちょうど近所の住人が、自転車の籠に通勤用のバッグを放り込んで走り出すところだった。
その姿を見送ってから、容子は近所の小さな公園の木立に目を移した。
まだ木々は寒々とした冬の装いのまま、緑一色とも茶褐色ともつかない鈍い色をたたえており、花びらの色らしきものはどこにも見当たらない。
それでも、空気の匂いには微かな湿り気と、土の目覚めるような気配が混じり始めていた。
駅までの道のりは、毎朝の習慣としてすっかり体に染み付いていた。
自宅を出て、曲がり角を二つ過ぎ、舗装された坂道を下る。
駅の駐輪場に自転車を滑り込ませ、いつもの柱に鍵をかける。
駅前の小さな花屋の店先には、色とりどりの切り花が並んでいた。
容子はそれを一瞥し、コンコースへと急ぐ。
家から駅までの道順も、駐輪場で自転車を止める場所も、考えずとも身体が覚えていた。
朝の通勤電車で立つ位置も同じだった。
会社の最寄り駅の階段に近い場所、混雑していても比較的乗り降りしやすい車両。
長年の習慣で自然と足が向く。
会社員生活を始めた頃から、結婚して四年が過ぎた今に至るまで、そうした小さな決まりごとは容子の身体に正確に刻み込まれていた。
そして、日々の行動パターンだけでなく、人生の大きな節目におけるスケジュールについても、容子は自分なりの「決まり」を持っていた。
結婚は二十七歳までにする。
そして、子供は二人欲しいと思っていた。
そんな人生設計が今の時代に誰にとっても当たり前だとは、容子自身も思っていない。
けれど、親や親戚の何気ない言葉、友人たちの選択、子供のいる家庭を幸せの見本のように扱う広告やドラマを見ているうちに、それが自分にも当てはまるはずの青写真として、いつの間にか心に根を張っていた。
結婚そのものは、二十七歳を迎えるまさにその年の土壇場で、ギリギリのところで間に合わせた。
しかし、肝心の子供の方はいまだに授かっていない。
結婚して今年で四年になる。
友人たちの近況は、年賀状や電話だけで知るものではなくなった。
SNSを開けば、家族旅行や子供の入園式、誕生日の飾りつけといった写真が目に入ってくる。
見たいと思って開いたわけではないのに、誰かの幸せがふいに流れ込んでくることもあった。
容子はそうした投稿に「いいね」を押すことはできても、そのたびに胸の奥がわずかに痛むことを、誰にも話せずにいた。
テレビ番組や配信サービスの特集、ニュースサイトの記事などで「妊娠」「出産」といった言葉や赤ん坊の映像を目にするたび、胸の奥の、普段は蓋をしているはずの場所に、まるで小さな小骨が引っかかったような妙なつっかえ感を覚えるのだった。
結婚して三年目を迎えた頃、不安に耐えかねて親しい友人に相談を持ちかけ、意を決して産婦人科の診察台にも上がった。
しかし、医師から告げられたのは、夫の範夫にも容子自身にも、検査の範囲では明らかな不妊の原因が見当たらないという、拍子抜けするほど淡々とした説明だった。
原因がないということは、つまりはただ「授からない」という事実だけが宙ぶらりんに残されるということであり、それはかえって容子の心を重くした。
今では、夫の範夫も、実家や親戚の者たちも、当初の期待をどこかへ置き忘れてきたかのように、少々諦め気味の、手探りのような目を容子に向けるようになっていた。
親戚の集まりで直接何かを言われることは減ったが、親戚のグループLINEに子供の写真が続けて送られてくると、どのスタンプを返せばいいのか迷うだけでも気持ちが重くなることがあった。
悪意がないと分かっているからこそ、容子は自分の痛みを説明できなかった。
その諦めが、逆に容子の肩に重くのしかかる。
そんなとりとめもない思いに囚われながらホームに立っていると、やがて入ってきた電車の扉が開いた。
押し寄せる乗客の波に流されるようにして車内に身体を滑り込ませ、いつものように吊り革に手を伸ばしたその時、突如として電車が大きく揺れた。
レールの継ぎ目でも拾ったのだろうか、車体が激しく左右に振られる。
普段なら、この路線特有の揺れのタイミングを身体が覚えているため、両脚に適度に力を入れて何事もなく踏ん張れるはずだった。
しかし、今朝の容子は心ここにあらずだったせいで、そのタイミングをすっかり逸してしまった。
身体が大きくよろめき、危うく隣に立っていた見知らぬサラリーマンの革靴を思い切り踏んづけてしまうところだった。
慌てて謝罪の視線を送りながら身体をかわそうとした弾みで、勢い余って頭上の吊り革に両手でしがみつく格好になった。
やれやれ、と心の中で小さく息をつきながら、姿勢を立て直すついでに目の前の座席に目をやった。
少し離れた、優先席の少し手前に座っている三人の学生服姿の中学生のグループが、なぜか容子の視線を捉えて離さなかった。
乗客の多くはそれぞれ自分の世界に沈んでいた。
けれど、その三人だけは互いの表情や仕草に気を取られているようだった。
真ん中に座っているのは、きれいに切り揃えられた黒髪を高い位置でポニーテールに結んだ女の子だった。
その両隣に、野球部のものか、少し日焼けした顔立ちの男の子が一人ずつ、まるでガードするかのように腰掛けている。
その三人の関係性が、容子の観察癖を奇妙に刺激した。
左側の男の子の制服の襟元が少し折れ曲がっているのに気づいた真ん中の女の子が、自分の手でそれを直してやっていた。
その手つきは非常に手慣れており、そしてどこか執拗だった。
右側の男の子は、その隣で繰り広げられているやり取りにチラリと目をやりながらも、どこか気まずそうに、あるいは興味がないふりをするように、窓の外へと視線を逃がしてすましている。
女の子の仕草には、年相応のあどけなさの裏に、妙にしつこいまでの粘り気があった。
二人の男の子に挟まれているという特殊な状況で、あんなふうに一方の男の子の身なりをベタベタと世話を焼く態度は、客観的に見ればどう見ても不自然だった。
容子には、その女の子の本当の心理が手に取るようにわかる気がした。
本当は、あの女の子が気になっていて視線を向けたいのは、右側で澄ました顔をしている、
もうひとりの男の子の方なのだ。
しかし、あからさまに好意を寄せるのは恥ずかしいのか、あるいはプライドが邪魔をしているのか、その本命の男の子の前ではうまく振る舞えない。
だからこそ、その照れ隠しや焦燥感の裏返しとして、もうひとりの男の子の襟を直すという名目にかこつけて、過剰なほどに関わり合っているのではないか――。
そう思えてならなかった。
ふと、そのポニーテールの女の子の姿に、若い頃の自分を重ね合わせてしまう。
あの女の子が自分自身で、今、襟を直してもらっている不器用そうな男の子は、夫の範夫なのだ。
では、あの右側で澄ましたまま、遠い目をして窓の外を見ているもうひとりの男の子は、一体誰なのだろう。
自分の人生のどこかで、すれ違ってしまったかもしれない、名前のない誰かなのだろうか。
そんな空想の迷路に足を踏み入れかけたその時、後ろから肩を叩かれた。
