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『 カケハシ 』
第七章 泥をかぶる手
十一月下旬。
北山の方から吹き下ろす「比叡おろし」が、京都の街の底冷えを急激に強め、歩く人々のコートの襟をギュッと引き締めさせる季節になっていた。
夕暮れ時になると、風待ち荘の二階の部屋には、誰からともなく自然と足が向く。
重い引き戸を開ければ「おかえり」「ただいま」という短い言葉が交わされ、日々の冷たい現実で凍りついた心が、まるで春の雪解けのように少しずつ溶かされていくのを感じていた。
ある夜の静かな時間。
部屋の中央に置かれた古い電気ストーブが、赤い金属音をチリチリと鳴らしながら、ささやかな熱を放っている。
「ねえ……」
敏夫がタブレットの画面からふと顔を上げ、皆を見回すようにしてぽつりと言った。
「最近、街を歩いていても、ネットの海を覗いていても思うんや。世の中には、誰かとほんまの意味でつながりたがっている人が、想像以上にたくさんいる。年配の人だって、スマホを握りしめる若者だって、みんな孤独を抱えている。なのに、誰もが最初の一歩を踏み出せへん。『そんなの無駄だ』って笑われるのが怖いから。翻訳ソフトなんて使っても『心がない手抜きだ』って切り捨てられるから。せやけどさ……ほんまは、その不器用で遠回りな無駄な時間の中にこそ、人間にとって一番大切なものが詰まってるんやないのか」
言葉が途中で途切れ、外の冷たい雨粒がトタン板を叩く音が、その空白の隙間を埋めるように激しさを増す。
裕也は、畳の縁の織り目を指先で幾度もなぞりながら、絞り出すように言った。
「俺はさ、どっちを選んでもきっと後悔すると思うんや。挑戦して失敗しても後悔するし、何もせえへんで諦めても一生後悔する。やったら……動かない後悔だけは、絶対にしたない。京都市内だけでも大学生は十五万人を超えるんやぞ。同じように悩み、誰かと分かり合いたいと願っている人は、この街のどこかに絶対いるはずや」
手元の使い込んだ黒いノートを、駿はバタリと力なく閉じた。
「見つけたところで、俺たち五人に一体何ができるっていうんや?」
その否定的な問いに、裕也は思わずちゃぶ台に両手をついて身を乗り出した。
「せやだからって、最初から諦めるのか!?相手に届かないかもしれないからって、手を伸ばすことすらやめるのかよ! もし万が一、意見がすれ違ったり間違って伝わったりしたっていいやないか。そこからもう一度、膝を突き合わせて話し合えばいいんやろ!」
自分でも驚くほど、切実で大きな声が狭い部屋に響いた。
「俺は嫌や!一度きりの人生なんや。親の言うなりになって人形みたいに生きるくらいなら、自分の手で、不器用でもいいからつながりをつかみ取ってみたいんや! 無茶だと言われたって —— 俺は自分の足で進んでみたい!」
部屋の中がぴたりと静まり返り、聞こえるのは軒先を打つ雨音だけになった。
しばらくの深い沈黙の後、駿はゆっくりと、震える手で白紙のページの上にペン先を落とした。
「……俺もや。言葉が届かなくてもいい。途中で意味を間違えられてもいい。せやけど、それでも俺は、書き続ける。俺の紡いだ言葉が誰かに届いたら、その人がまた、次の誰かに心を繋いでいってくれるかもしれないから」
敏夫は、膝の上のタブレットの画面を力強く両手で押し込んだ。指先が白くなるほどに力がこもっている。
「俺は、場所をつくる。誰もが急かされず、他人と比べられず、それぞれの不器用なペースで言葉を育てられる場所を、絶対に形にする」
佐伯恭一は、窓際の暗がりから静かに一歩前に出た。
「俺はまだ……家業を完全に捨てて、一人で飛び出す勇気はない。実家の店も、親父の背中も簡単には切り離せない。せやけど —— お前らの後ろには立たせてくれ。お前らが倒れそうになったら、俺が全力で支える。絶対に、一人きりにさせたりはしーひん」
茜は、瞳に熱い涙を湛えながらも、力強くうなずいた。
「私も!私が一番後ろからみんなの背中を押す。この場所に来てくれた人が、誰一人として取りこぼされないように、私が支え続けるから」
恭一が、ポケットから取り出した三枚の十円玉を、手のひらの上にそっと載せた。
障子の隙間から漏れ出した街灯の光が、十円玉の銅の表面をきらっと鋭く輝かせる。
「一人三十円。これが、俺たちの持ってるすべての小さな力や。この小さな力が集まったら —— きっと、何か少しだけでも足元を照らせるはずや」
裕也はその輝きをじっと見つめ、自分の右手で固く拳を握りしめた。
「ああ、やってみる。俺たちの手で、この不器用な風を通してみせるんや」
