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『 色のついた一日 』

 

第二章 ルーブルへの道

 

まぁ、どうにかなるとは思っていたが、パンフレットを手にした大森は、もちろん自分のためにわざわざ案内板やパンフレットを作ったわけじゃあるまいし、日本からの観光客が以外と多いのだろうな、とも思った。

 

案内板の矢印の方向に歩いていくと、人の出入りが多い扉の前に来た。

 

あまりにもあっさりと来てしまうと、ありがたみがなくなってしまう。

 

あの案内板は、ない方が良いかもしれない。

 

どこにあるのだろうと、迷路の中を探して歩き回る方が、絶対に良いと思った。

 

最後の案内板の近くの開いた扉から入った。

 

そこに彼女モナリザが展示されているようだった。

 

奥に入ってゆくと、物凄い人達が一方の壁に集まっていた。

 

そこに、防護ガラスに護られたモナリザがいた。

 

大森は、人だかりの後ろの方で、しばらく見つめていた。

 

テレビや雑誌で何度も見ていた。

 

その彼女が、先の方で微笑んでいるのが見える。

 

世界で最も有名な顔と言ってもいい。

 

これまで写真や印刷物でしか見ていなかったものが、今は現実の物として目の前にある。

 

旅とは、こうした言葉にならない瞬間のためにあるのだと思った。

 

ただ、人間の愚かさにも思い知らされていた。

 

わざわざ、防弾ガラスまで設置して観なければならないなんて、ダビンチが見たら、きっと彼は目を背けただろう。

 

そして、遠い未来の我々に憤慨もしたに違いない。

 

大森は、人だかりが減った頃を見計らって、近づいていった。

 

そばに座っていた係員に、大森はバックから取り出したビデオカメラを取り出し「撮影してもいいですか」と身振りで聞いた。

 

係員は「いいよ」と手を上げて答えた。

 

カメラを構え、モナリザを撮り始めた。

 

「きっと、ホテルで休んでいる村田さんは驚くだろうな」と思った。

 

大森は、ビデオの撮影でたくさんの女性を撮影してきた。

 

今、目の前に佇むモナリザは、愛想なく座っているだけだった。

 

大森は人を避けながら、さらに近づいた。

 

モナリザの目を見つめていると、つい癖で『シナリオ』を始めていた。

 

ダビンチ「今のところ、こんな感じで描いてる。そこから見えるかな?」

 

モナリザ「見えますわ。さすがですわ先生、素敵です」

 

ダビンチ「いや、本物のあなたには敵わないよ」

 

モナリザ「まっ!お上手ね、先生ったら」

 

ダビンチ「君、ほらほら、そんなに笑ってたら描けないよ。

     それに、そんなじゃ疲れてしまうよ」

 

モナリザ「だって先生、街中を歩いている美しい女達は、みんな笑ってますよ」

 

ダビンチ「こういう絵ではな、書き上がるまで時間がかかるんだよ。

     長い時間は笑い続けられんだろ」

 

モナリザ「先生、絵が出来上がるの遅いって聞きましたよ」

 

ダビンチ「誰から聞いたんだ」

 

モナリザ「ミケランジェロさんからちょっと」

 

ダビンチ「あの野郎」

 

モナリザ「先生も短気ね」

 

ダビンチ「あいつは気に食わん。さぁ、笑顔は控え目にな」

 

モナリザ「こんな感じですか? ちょっと笑顔で謎めいて見えません?」

 

ダビンチ「ん・・?それいいな。そのままでいてくれよ」

 

モナリザ「分かってますわ。先生、美人に描いてくださいよ」

 

ダビンチ「ああ、わかった。わかったよ」

 

大森の本職は、シナリオライターでディレクターだった。

 

撮影現場では、疲れ切ったモデルさんがカメラを向けると「とびきりの笑顔」をつくり、カメラが止まると元の疲れた顔に戻った。

 

何度もその景色の中で仕事をしてきたが、一人だけ、ずっと微笑んでいた女性がいた。

 

カメラを回そうが止めようが、変わらない笑顔だった。

 

あの女性なら、きっと筆の遅いダビンチでも喜んだに違いないと大森は思った。

 

それに写真とかビデオのように長いと言っても数十秒もない。

 

ところが、ダビンチがいた時代に写真機やビデオはない。

 

スフマート技法で指の腹を使って質感を表現するダビンチは、より時間がかかったに違いない。

 

その間、ずっと黙っていたとは思えなかったのだ。

 

当時もきっと、あのようなやり取りがあったのかなと想像していたのだ。

 

時計を見て、そこから立ち去るのが惜しかったが、ダビンチの作品は他にも展示されている。

 

せっかく来たのだから見に行くことにして、モナリザに「ありがとう」と告げて部屋を出ようとしたが、押し戻された。

 

団体のお客さんがやってきたのだ。

 

大森は、お客を避けながら、広い回廊を歩き始めた。

 

歩いて、歩いて、さらに歩いた。

 

冗談ではなく、美術館の中を歩き続けていた。

 

見つけた「岩窟の聖母」、これもダビンチの傑作だった。

 

素晴らしい。

 

三角形の構図に、聖母マリア、幼いキリスト、洗礼者ヨハネ、天使たち。

彼らの視線を追うと言葉を超えた霊的な対話を感じた。

 

ここでは、シナリオはやらないでおいた。

 

この絵を見ていると、ダビンチは、やはり天才だと思った。

 

さらに「聖アンナと聖母子」も見つけた。

 

大森は、モナリザも良いが、この聖アンナと聖母子もダビンチが晩年まで手を入れたもので、本物を観たいと思っていたのだ。

 

こうやって、じっとしていたい気持ちもあったが、ほかの展示も観ておきたかった。

 

一昨日、現地の営業さんが言ったように、この美術館は思っていた以上に広かった。

 

部屋の扉をくぐっても、その先にはさらに別の時代のエキゾチックな絵画が並ぶ部屋が続いている。

 

どこを見渡しても大きな物量の彫刻作品が並んでいる。

 

天井の高い美しいホールや、終わりの見えない長い廊下が迷路のように入り組んでいた。

 

どれほど長い時間をかけて歩き続けても、展示の終わりが訪れる気配は一向になかった。

 

すでに美術館の全体をひと通り見終えたはずだという感覚があったにもかかわらず、気がつけば大森はまた元の場所とは違う別の興味深いエリアへと迷い込んでいた。

 

知らないうちに、大森は同じような展示の空間をすでに三回もぐるぐると周回するように歩いていたのだった。

 

なぜ、そこまでして自分の肉体を痛めつけるように歩き回っていたのだろうか。

その理由を今の大森にも正確に答えることはできない。

 

おそらく、心のどこかで「ここから外へ出てしまうこと」を惜しんでいたのだ。

 

日本へ戻れば、底なしの仕事のプレッシャーが待ち構えている。

 

新しいノンリニア編集機のデモンストレーションに追われ、頭を悩ませるストレスフルな現実世界へ、大森は再び引き戻されることになる。

 

だからこそ、このルーブルという現実から切り離された巨大な芸術の空間の中に身を置いている間だけは、もう少しだけこの時間の流れの中に長居していたかったのかもしれない。

 

当時の大森は、そんな哲学的な逃避行の理由を言語化している自分を笑ってた。

 

ただ、今のこの視点から過去を眺めてみると、あのときの大森の足の裏の痛みと彷徨には、そういう切実な理由が隠されていたのではないかと思えてならなかったのだ。