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『 色のついた一日 』
第一章 フランスへの旅
大森純也は、七十一歳になっていた。
二十年以上前、仕事でフランスへ行ったことがある。国内のテレビ局やケーブルテレビ局、ビデオ制作プロダクションに出張してノンリニア編集機のデモンストレーションを行っていた頃のことだ。
ある日、石川県内のケーブルテレビ局にライバル社のシステム機器が納入されようとしていた。現地の営業は大森に、ノンリニア編集機およびシステムの優位性を訴求するデモンストレーションを強く要望し、大森の手腕で見事に逆転して納入が決まったところだった。
数日して、事業部の偉いさんからフランスへの出張依頼が入った。大森は、先日のケーブルテレビの納入のご褒美かなと喜んだ。早速パスポートを取得してフランスへ向かった。
大森にとってフランスは特別な国だった。それはレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画が展示されているルーブル美術館があり、学生の頃によく聴いていたフランソワーズ・アルディの国だったからだ。
会社命令の出張ではあったが、あのときの自分にとっては、単なる業務以上の特別な意味を持っていた。
いつもの日常から離れ、憧れの国へと向かう胸の高鳴りがあった。だからこそ、不思議なもので、今でもその時のことをかなり鮮明に覚えている。
フランスの街の景色。そこで出会った人たち。そして、自分がそのとき何を見て、何を感じたのか。細かなことまで、意外なほど記憶に残っている。なぜ、あのフランス行きだけが、これほど長く記憶に残っているのか。大森自身にも、はっきりした答えはなかった。
リールでの仕事を終えた大森純也と HDD の技術者である村田浩司は、TGV に乗ってパリへ向かっていた。窓の外を、フランスの景色が流れていく。
二人とも、ここ数日は遅くまで仕事をしていた。特に村田は、システムのログ解析が続いていて、かなり疲れているようだった。大森が隣を見ると、村田は目を閉じていた。
「大丈夫ですか」声をかけると、村田は目を開けた。
「ちょっと疲れただけ。パリに着いたら休むよ」
そう言って、また目を閉じた。大森は、それ以上は声をかけなかった。
前日の夜のことを、大森はふと思い出した。仕事を終えた二人は、現地の営業さんと食事をしていた。そこには、イギリスに駐在している北野もいた。北野が通訳をしてくれていた。
食事の席では、今回の仕事の話にもなった。現地の営業さんは、大森と村田にあらためて礼を言った。
「リールまで来て、現地のシステムを見てくれて、本当に助かりました。お二人のおかげで、無事に仕事を終えることができました」
北野が通訳してくれた。大森は、たいしたことをしたつもりはなかったが、そう言われると少しうれしかった。
今回、大森と村田がリールまで来たのは、現地に納入したノンリニア編集システムの動作を確認するためだった。その話が一段落すると、明日はパリへ移動するという話になった。
「十時発の TGV です」村田がそう言うと、北野が通訳した。
営業さんは「きっと驚くぞ」と言った感じで笑った。
「日本の新幹線より速いですよ。楽しみにしてください」
そのあと、大森に向かって尋ねた。
「パリでは、どこへ行きたいですか?」
北野を通した質問だった。大森は少し考えてから答えた。
「ルーブル美術館でモナリザを見たい。それと、シャンゼリゼ通りのバージンレコードで、フランソワーズ・アルディの CD を買いたい」
営業さんの表情が変わった。
「その二つは難しいです」
フランス人に限ったことではないが、外国の人の表情は大袈裟に見える。
この時も、絶望的な身振りで「無理だ」と大森にも伝わった。
「そんなに難しいですか?」大森が聞くと、営業さんは真面目な顔で続けた。
「ルーブル美術館は、とても大きくて広いです。初めて行く人が、モナリザに会うのは不可能に近いですよ」
そして、もう一つの希望についても言った。
「シャンゼリゼ通りでバージンレコードの店を見つけるのも、きっと大変です」
大森は自嘲気味に笑った。
「フランソワーズ・アルディをご存じですか?」
営業さんは少し考えた。
「聴いたことはあります。でも、昔に活躍した人ですよね」
「そうですね」大森が答えると、営業さんは笑って言った。
「私のおすすめはエッフェル塔です。上から見るパリは最高ですよ」
大森も笑った。
TGV の揺れで、大森は現実に戻った。パリまでは、もう少しだった。
やがて列車はパリへ入り、二人は駅からタクシーに乗った。ホテルはブローニュの森の近くにあった。
ホテルに着くと、村田は自分の部屋へ入った。
「少し休むよ」
それだけ言って、部屋の中へ消えた。
大森も自分の部屋に荷物を置いた。しばらくして、大森は思った。
せっかくパリまで来たのだから、少し歩いてみよう。
村田の部屋へ行き、ドアを軽くノックした。返事がない。もう眠っているらしい。大森は起こさず、そのままフロントへ降りた。
カウンターの近くに、街の地図が置いてあった。大森は一枚取って地図を見た。意外にもブローニュの森はホテルから近かった。
大森はコートを着て、ホテルを出た。
森へ向かって歩きながら、大森は何度も地図を見た。標識はフランス語で、何が書いてあるのかよく分からない。それでも、地図と周囲の景色を見比べながら歩いていると、やがて緑に覆われた木々の多い場所に入った。
ブローニュの森だった。
大森は、大学の頃によく聴いていた、フランソワーズ・アルディの「もう森へなんか行かない」のメロディを思い出していた。大森は足を止め、周りをゆっくり観ていた。
フランスは音楽の中にある遠い国だった。それが今、自分はパリにいて、しかも、ブローニュの森を歩いている。
なんだか不思議な気持ちになった。
「まさか、本当に来るとは」と小さくつぶやいた。
何年も前に聴いていた曲を思い出しながら、木々の間をゆっくり歩いた。村田のことも気になった。ここ数日の疲れ方を考えると、明日は一緒に出かけられないかもしれない。
そう思う一方で、大森は森の中にいることが心地よかった。急ぐ必要はない。
しばらく歩いていると、フランスまで来たことが、ようやく実感として身体に染み込んでくるようだった。
翌日、村田の体調は戻らなかった。
それでも、大森を一人でパリの街へ出すことが気になったのか、村田は無理をして起きてきた。
「せめて、凱旋門までは一緒に行きましょう」
二人はホテルからタクシーに乗った。凱旋門が見えてくると、村田は大森に言った。
「この凱旋門を目印にしておけば、迷ったときに便利です。シャンゼリゼ通りからホテルまで一直線ですから大丈夫と思います」
大森は、少し驚いた。疲れているはずなのに、村田は地図を見て、大森が迷わないように考えてくれていたのだ。
「本当は、僕が付いて案内した方が良いのですが、申し訳ない」
「いいえ、なんとかなりますよ。ありがとうございます」
大森は素直に礼を言った。村田はそのままタクシーでホテルへ戻っていった。
ここからは、大森一人だった。
大森は、凱旋門を一度振り返った。一昨日に営業さんから「難しい」と言われたルーブル美術館と、シャンゼリゼ通りのバージンレコード。その二つを心に決めて、大森は一人で歩き始めた。
パリの街を歩き始めると、最初のうちは方向もよく分からなかった。大森はもともと、知らない街を歩くのが嫌いではなかった。
ただ、フランス語は分からない。標識も読めない。開き直って大森は歩き出した。
途中で腹が減り、小さなピザの店に入った。テーブルにつくと置かれていたメニューには日本語も書かれていた。少し安心した。
食事を終えて会計しようとしたが、コインとお札を見てもいくら払えば良いのかが分からない。大森は財布の中身をカウンターに並べた。店員の女性は必要な分だけ取り、残りを戻してくれた。
彼女の笑顔に救われ、会計を済ませた。
大森は苦笑した。
「案外、なんとかなるもんだな」
店を出て歩いていると、目の前に大きな川が見えてきた。
きっとセーヌ川だ。
右手奥を見ると、エッフェル塔が見えていた。
見上げながら、現地の営業さんが勧めていたのを思い出した。
また来るとわかっていたらエッフェル塔も見に行ったに違いない。
今回は、もう目的を決めていたのだ。
大森は、そちらと反対に川沿いに歩き出した。
いくつかの橋を右手に見ながら歩いていると、かなり遠くに輝くガラスのピラミッドが小さく見えてきた。
大森は足を止めた。ルーブル美術館だった。
「やっと見つけたぞ」
歩いて、ピラミッドが近づくほど、大森の期待は膨らんでいく。
早速、エスカレーターで地下へ降りた。
その間、一昨日の現地営業さんの「モナリザに会うのは難しい」その言葉が襲ってくる。
エスカレーターを降りてすぐだった。
日本語の案内が目に入った。
「 モナリザ → 」
日本語と矢印が示されている。
矢印の先に目をやると、その先にも案内板が見えた。
さらに、受付の棚には日本語のパンフレットまで置いてあった。
大森は、あの営業さんの絶望的な顔を思い出して笑った。
