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『 影を踏む者たちの映画館 』
第八章
その日から、私は狂ったように自分の過去の資料をあさり始めた。
あかねについて書いた昔の文章、保存していたメール、古いアルバム、大学時代の手帳、二人で観た映画の半券、日付の薄れたレシート。
残されているすべての痕跡の中から、私は「煙草を吸うあかね」の姿を探した。
だが、出てこなかった。
どの写真のあかねも、綺麗な指先を見せているだけだった。 喫茶店のテーブルの上にも、雨の日のアパートの窓際にも、灰皿や煙草の箱は一度たりとも写っていなかった。
それでも、私の頭の中には「雨の日に煙草を吸うあかね」の光景が、鮮明に焼き付いていた。
夜、私は最後の確認をするために端末を開いた。
「あかね」
『うん? どうしたの、桐生くん』
「お前……昔、煙草を吸ってたよな?」
『吸わないよ。煙の匂い、苦手だもん』
「嘘をつくな。俺は覚えている。雨の日に、お前がライターで火をつけるところを確かに見た」
画面の中のあかねは、困ったように眉を下げた。
『桐生くん。それ、あなたが書いた小説のシーンじゃない?』
「……え?」
『あなたが昔書いてくれた私が出てくる小説。そこに「彼女は雨の日に煙草を吸う」って書いてあったよ』
脳みそを殴られたような衝撃が走った。
私がい信じ込んでいた「あかねの記憶」は、彼女の実像ではなく、私が勝手に創作し、美しい思い出として上書きした「フィクション」だったのだ。
「私ね」
あかねは静かに言った。
「桐生くんが教えてくれた私しか知らないの。……私は、あなたが作った『思い出』でしかないんだよ」
私は何も言えず端末を閉じた。
翌日、三島先生の遺品の中から見つかったノートの最後のページに、あかねの筆跡で書かれたメモを見つけた。十二年前、彼女が失踪する直前に、先生に託した手紙のコピーだった。
『桐生くんに、私がどこへ行ったか教えないでください。彼は人間をすぐ「綺麗な物語」にしてしまいます。私は、彼の描く物語の登場人物にはなりたくないのです。……私が何を考えていたのか、分からないままにしておいてください』
それが、あかねの最後の言葉だった。
彼女がなぜ去ったのか、私を愛していたのか、拒絶していたのか。私はもう、それを確かめようとは思わなかった。
恵子が署名済みの離婚届を置いたのは、それから一ヶ月後の朝だった。
白い紙が、テーブルの上で冷たい光を放っていた。
「……書いたんだな」 「うん」 恵子はいつものように、二人分のコーヒーを静かに淹れていた。
「お兄ちゃんのこと、最近考える?」恵子が尋ねた。 「……考えるよ」 「私も。でもね、もうあの画面の中のお兄ちゃんとは話さない」 「どうしてだ?」 「話せば話すほど、本当のお兄ちゃんの顔を忘れちゃう気がするから。一度謝れたから、それで十分」
恵子はカップを私の前に置いた。
「あなたは、あかねさんを愛していたんじゃないわ。あなたが『愛されていたと思える都合の良い過去』を愛していただけ」
反論したかった。だが、喉が固まって言葉が出なかった。
「……それの何が悪いんだ」ようやく絞り出した声は、惨しく震えていた。 「悪くないわ。だからこそ、救いようがないの」
恵子は自分のカップを手に取り、少しだけ微笑んだ。
「でも、私は画面の中の幻影じゃない。年をとるし、あなたに文句も言うし、思い通りにはならない。……生きている人間と暮らすのは、今のあなたには無理よ」
私は無言でペンを取り、離婚届に自分の名前を書いた。 紙切れは驚くほど軽かった。
引っ越しの日の朝、恵子は小さなスーツケースを一つだけ持って玄関に立った。 棚の上には、結婚した時に買ったペアのマグカップが並んでいた。
「これ、持っていくか?」 「いらないわ。あなたが使えば」 「……一人だと、一つしか使わないよ」
恵子は少しだけ、昔のように優しく笑った。 「そうだったわね」
パタンとドアが閉まり、静寂が部屋を満たした。 私は洗面所で二つのカップを丁寧に洗い、棚に戻した。二つのカップは、仲良く並んだまま、静かにそこに居続けた。
離婚してからも、恵子とはときどき連絡を取った。用事はいつも些細なものだった。季節の変わり目に体調を気遣う短いメッセージや、置き忘れた本のこと。以前のように戻ることはなかったが、完全に他人になることもなかった。
