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『 カケハシ 』
第五章 実験場
再び教授の研究室。
机の上に広げられた「100人のできることリスト」を眺めながら、教授はふっと満足そうに髭を撫でた。
まるで、この結果を最初からすべて見通していたかのように。
「……やっぱりな」 そう呟いて、教授はパイプを灰皿に置いた。
「先生、これ……すごいです。みんな、自分の特技やちょっとした優しさをこんなに持ってたんです」
前島が興奮気味に用紙の束を持ち上げると、教授は静かに首を横に振った。
「違うな。彼らが持っていたのは、もともとの才能や特技だけやない。みんなな、ほんまは『自分が出来ることを、もっと増やしたい』と思っているんやないかな」
研究室の空気が、ふっとスローモーションになったように静まり返った。
「出来ることなんて、最初は誰も大したもんは持ってへん。スマホの文字打ちが早かろうが、猫を見つけられようが、そんなんはちっぽけなことや。せやけどな、『ほんのわずかでも新しいことを学んだり、誰かの役に立てる知識を知ることで、人の役に立てるならやってみたい』――そう思っている連中が、この街には意外とゴロゴロ転がっとるんちゃうか」
教授のその言葉に、倉橋はハッと胸を突かれた。
「……そうか」 倉橋は呟いた。
「みんな、何もあらへんから動けへんのやない。何かを学びたい、誰かの役に立てる自分になりたいって思いながら、そのきっかけがなかっただけなんだから……」
山田が深くうなずき、腕を組んだ。
「せやから、ただ悩みを吐き出すだけの場所じゃあかんのや。ここは、お互いが持ってる『できること』を持ち寄るだけやなくて、新しい何かを学んで、自分の『できること』をどんどんアップデートしていける場所にせなあかん」
佐伯の目が、面白がるようにギラリと光った。
「溜まり場であり、学び場であり、小さな仕事が生まれる市場でもある……そんな空間やな」
茜はパッと顔を輝かせ、手元のノートをギュッと握りしめた。
「それ、めちゃくちゃ最高やん!京都の14万人の学生が、ただ消費して通り過ぎるだけやなくて、ここで互いに影響し合って、少しずつ強くなっていける場所を作るんや!」
教授はふっと不敵に笑い、若い彼らを見据えた。
「そうや。100人のちっぽけな『できること』を掛け合わせ、さらに学びの火種をくべ続けろ。それができたとき、その100人の群れは、京都市内の空気をガラリと変える『本物の化け物』に化けるはずや」
——学びたい。人の役に立ちたい。
その剥き出しの原動力が、いよいよ彼らの作る「現実とネットの拠点」に火を灯そうとしていた。
「ほんまにな……」
前島が息を大きく吐き出し、ちゃぶ台に散らばるアンケートの束を見下ろしながら、思わずといったふうに笑った。
「最初はただ自分たちの居場所が欲しくて、ちょっと世間に一泡吹かせたるか程度のノリやったのに。気づいたら、100人の奴らがそれぞれの『できること』を抱えて、ここに集まってきよった」
山田が腕を組み、ニヤリと口の端を吊り上げる。
「しかも教授は、ただの自己満足で終わらせへんかった。『できることを増やす場所』にしろやってさ。……いやぁ、あの変人オヤジ、マジでとんでもない火種を俺らに渡しやがったな」
佐伯が机の上のタブレットを軽く叩く。
「ただの溜まり場やなくて、学ぶ場所であり、お互いの武器をトレードする市場や。こんなん、面白うならんわけがないやろ」
茜は窓の外、夕暮れに染まり始める京都の空を見上げながら、弾むような声をあげた。
「この街のどこかに、今の生活に息苦しさを感じて、でも何か変えたいってうずうずしてる学生が、まだまだ何万人もおるんやもんね。その人たちがこの拠点に繋がってきたら……京都の街、ホンマにひっくり返せるで」
倉橋は、ここまで書き殴ってきたノートのページをパラパラとめくった。
最初の「30円の少額基金」という小さな落書きから始まり、100人のモヤモヤ、そしてそれぞれの「できること」と「学びへの渇望」。
バラバラだった点と点が、今や強烈な熱量を帯びて一本の太い線に繋がり始めていた。
「ああ、ここからや」 倉橋はペンを握りしめ、仲間たちを見渡した。
「俺らが作る『現実の空間』と『ネットの空間』は、ただのサークルルームでも、ただのSNSでもない。京都の若者たちが、自分の足で立ち上がり、互いをアップデートするための『実験場』や」
既定のレールから外れた五人の若者たちが描き出す青写真は、もはや誰にも止められないうねりとなって、動き出そうとしていた。
倉橋はノートを勢いよく閉じ、ちゃぶ台にドンと置いた。
「よし、話は決まった。ここからが本番や」
前島がすぐにタブレットを立ち上げ、画面を指で弾く。
「ネット側のプラットフォーム、一気に突貫工事で形にするわ。100人の『できること』カタログと、これから新しく学びたいテーマをマッチングできる掲示板の仕組み、今夜中に叩き台を作る」
「リアル側は、俺と山田に任せろ」 佐伯が立ち上がり、腕を軽く回した。
「街中にある手頃な空き物件、古民家でも使われへんようになった店舗でもええ、片っ端からあたって『現実の溜まり場』のハコを押さえてくる」
山田が不敵に笑う。
「おっ、いいんちゃうか。ガチガチの不動産屋じゃなくて、街の変なおっちゃんがやってるようなところを狙おうぜ。そっちの方が俺らのノリに合いそうや」
茜は立ち上がると、窓を開け放って秋の涼しい風を部屋に招き入れた。
「みんなの『できること』を繋げて、学ぶためのワークショップやイベントの第一弾も、私が企画してやる!教授をあっと言わせるような最初の仕掛け、絶対作ってみせるから」
五人の視線が自然と中央の倉橋に集まった。
倉橋は深く頷き、力強く言い放つ。
「行こうぜ。京都の14万人の若者たちが、自分の足で立ち上がり、互いをアップデートするための実験場を、俺たちの手でぶち上げるんや」
その夜、五人はそれぞれの役割を決めると、一度だけ互いの顔を見た。
誰も大きな成功を口にしなかった。
明日になれば、また思い通りにいかないことが起きる。
それでも、やるべきことは見えていた。
まず一人に声をかける。
その一人が誰かとつながれば、 次の一人へ渡っていく。
そんな小さな一歩を、五人はそれぞれのやり方で踏み出そうとしていた。
京都のどこかで待っている、まだ顔も名前の知らない誰かに向けて。
「明日からや」と倉橋が言うと、五人は黙ってうなずいた。
誰も笑わなかった。 窓の外では、京都の夜が静かに、深くなっていった。
