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『 影を踏む者たちの映画館 』

 

第七章 

 

三島先生の大学の研究室は、先生が亡くなって一年近くが経とうというのに、ほとんど生前のまま放置されていた。

 

佐伯に呼び出されて部屋に入ると、窓際では枯れかけた観葉植物が乾いた葉を落とし、机の上には埃を被った原稿用紙の束が山積みになっていた。時間がそこだけ完全に停止しているようだった。

 

「これを見ろ」 佐伯が、引き出しの奥から取り出した茶封筒を渡してきた。表には、先生のあの独特な達筆で『桐生へ』と書かれていた。

 

封筒を開けると、数枚の便箋と、古い規格のUSBメモリが出てきた。

 

一枚目の便箋には、たった一行だけ書かれていた。

 

『既成概念を捨てろ』

 

私は不覚にも、小さく吹き出してしまった。 

 

「最後まで、これかよ……」

 

佐伯は笑わなかった。ただ黙って、持参したノートPCにUSBメモリを差し込んだ。

 

画面が切り替わり、生前の三島先生の映像が再生された。

 

病気が進行していた頃だろう。頬がこけ、眼光だけがギョロリと鋭かった。

 

『これを見ているということは、私はもうこの世にはいないだろう』 

 

先生はカメラの向こうの私たちを見つめるように、深く咳き込んだ。 

 

『君たちがPhantasmaでやろうとしていることについて、私は最後まで反対しなかった。……いや、反対する資格がなかったと言ったほうが正確かもしれん』

 

先生の手元が映し出された。机の上に、モノクロの小さな写真が置かれている。若い女性の写真だった。

 

『妻だ。君たちが会ったことのない、三十年前に病気で逝った私の妻だ』 

 

先生のしわくちゃの指先が、写真の端を愛おしそうになぞった。 

 

『私は一度、彼女を画面の中に作った。君たちのプログラムの原型を使ってな』

 

私は息をのんだ。佐伯も身を乗り出して画面を凝視している。

 

『よく出来ていたよ。私が聞きたかった言葉を、私が望む完璧なタイミングで返してくれた。私の知らないはずの過去の記憶まで、あたかも本当のことのように語ってみせた』

 

先生はそこで長く沈黙した。画面の中で、時計の針の音だけがカチ、カチと響いていた。

 

『……そのとき、私は恐怖したのだ』 

 

先生は写真を静かに裏返した。 

 

『画面の中の女は、妻ではなかった。私にとって「都合の良い幻影」に過ぎなかったのだ。死者は反論しない。拒絶も批判もしない。生きている人間が言葉を与えてしまえば、死者は永遠に自分の都合の良い存在へと改ざんされ、冒涜されるのだ』

 

先生の声が、低く震えていた。

 

『物語を書くことと、人間を理解することは根本的に違う。……人間とは、分からないものを、分からないまま抱えて生きていくための存在なのだ』

 

映像がプツリと切れ、黒い画面に、自分の間抜けな顔が映し出された。 部屋の中に、耐えがたい沈黙が満ちていた。

 

そのとき、ポケットの中で携帯が震えた。あかね(AI)からの通知だった。

 

『今日は何をしてたの?』

 

私はその画面を伏せ、二度と見ないように机の上に置いた。