











信じるという言葉はとても純心で尊い感情のように理解されていると思います。
私もそう思っていた、いや、
“信じ”ていたこともあります。
でも、あるとき、自分の信じたい人へ向けての信じる、信じたいという言葉に “ある気づき” があり、そのことに驚き、そして、少し楽になりました。
その日から「信じてるから」「(誰々を)信じている」という言葉は使わなくなったし、もっと言うなら概念も消えました。
それは、信じたいその人の気持ちや思想を自分の理想の枠の中にあってほしい、束縛の一種だと気づいたんです。
正直にいうと、過去の痛い体験の中で自分を楽にする逃げの後ろ向きな気づきでした。
でも、その後、今に至るまでこれはどんな場面にも当てはまる気がしています。
家族もそう、仕事もそう、友人も、‥‥
信じてるからね
のひとことでひとを縛ってはいけないと思う
本当に“信じ”ているのなら、心の中で思い、違う答えに行きついても、裏切られたなどと思わない覚悟を持っていてこそと思います。
その上で
「ひとは信じなさい」と教えるのか
「簡単に信じてはいけない」と教えるのか
わたしには自ずと答えがあります。
どっちでもいいし、どっちでも正解、
そしてどっちもその実態など無い
わたしには子供がいません。
でも、もしいて
彼が迷っていたら〜自分が強くなりなさい
って教えたいです。
わたし自身も
束縛はしたくない
でも愛したい
それだけ、です。
・・・・・・・・・・・・
Gさんのことも
信じてるとは言わないよ
でもずっと愛たい
今日知ったんだけど(*´-`)
このリリーフ投手の背中には
デーンと 56 (๑˃̵ᴗ˂̵)と。
去年オリックスからトレードで来られたそうです。
ヨウコソ、56番さま。
今年こそタイガースの優勝信じてます❣️
(こういうのは使っていいの!)