めぐみさんのお母さまと旧友である母と京都のデパートへ、お父さま滋さんの写真展を見に行ったときのこと。

すでにあまり長く歩けなくなっていた母が、その大量の写真に夢中になり、一枚一枚、一時間余りもかけて鑑賞した。
そのことにも感動したが、お父さまの撮影された家族の写真が本当に自然で素晴らしく、また、その当時ではとてもモダンで素敵な家族だったことがよくわかり、たった12年間のたくさんの記録に胸を打たれた。

その日はご夫妻のトークショーが予定されていた。母は会えるのも楽しみに長い時間座らず会場を歩き続けることもできたのだ。
でも、トークショー会場は開始時間にはすでに多くの人が入れない状況だった。

また直接会える時があるからと諦め、モニターに流れるお話を少し聴き、いよいよ脚が辛くなった母と会場をあとにした。

その時、拉致被害家族会を支援するために親子して購入したバッジ。
今も多くの政治家が付けている。
どうやら意味合いが違ってきている‥。

私はこの小さなブルーのリボンに純粋な願いを抱き今も大事に持っている。


彼女がいなくなったのは私もまだ高校生のころ。
うちの両親にとっても大変な出来事だったことは当時の私はよくは知らない。
そのずっとあと〜20年もののちに、誰もが思いもよらない事件に巻き込まれていたことが明るみになって初めてはっきりと理解したように思う。
いろんな意味で両親にとっても衝撃的過ぎる出来事だった。

そんな衝撃を受け、ふたりなりにご夫妻を励まそうとする両親を見ていて、私はいつか、ご夫妻と私の両親とともに彼女と会える日があると信じた。

でも、さらに長い年月が過ぎ、父が亡くなり、母もだんだんとわからなくなることが多くなり、お母さまがテレビに映るとじっと見て「‥わたし、この人知っている」と言うようになった。


ご夫妻は本当に人の縁を大切にする方で、両親は奥さまの多くいらっしゃる旧知の人々の中のふたりに過ぎないが、折々に息災を尋ねてくださっていた。

そのお電話に対応するのが私になった時も、お二人とも本当に穏やかで優しいテレビでの口調のままだった。
あんなに過酷な人生、お忙しい日々の中での周りへの気配りに感謝し尊敬するばかり。


叶わなかった父娘の再会。
本当にくやしい。

母は何度でも悲しむので、知らせることはできない。
父、母の分も私が祈る。
滋さんのご冥福を。

そして、早紀江さんのご健康とめぐみさんとの再会の日を。