森下佳子は、つくづく恐ろしい脚本家だと、再認識いたしました。
「照子と瑠衣」について書こうと思っていたのですが、「べらぼう」が凄すぎたので、先に書きます。
矢本悠馬扮する、佐野政言は、吉見一豊扮する父親と、田沼の間に挟まり、困り果てておりました。
認知になったと思われる父は、佐野の家系図を帰せと田沼に迫りますが、渡辺謙扮する意次は、家系図を池に捨てたことなど、忘れておりました。
宮沢氷魚扮する意知は、なんとか政言を重用してほしいと、父親の意次に懇願しますが、お前の裁量でなんとかしろと、突き放されます。そもそも、家系図など、足軽上がりの家に産まれた意次にとっては、迷惑以外何物でもありませんでした。
意知は、米の問題に加え、福原遥扮する誰袖の身請け話もあり、公私ともに忙殺されておりました。なんとか政言を、将軍の狩りのものにとりたてますが、そこでも政言に対して、意知の悪行が耳に入れるものがおりました。自分たちだけが大儲けして、吉原通いを続けていると。
政言は何とか、意知のことを信じようとするのですが、父親の庇護をうけ、異例の出世を続ける意知には、非難が集中しておりました。
誰袖は、ついに身請けが決まり、意知と花見の約束をしておりました。逆に佐野家の桜は、ついには咲くことすらなくなってしまいました。そこに、さらに讒言をするものがおり、とうとう政言は堪忍袋が切れてしまいます。
意知と誰袖は、幸福の絶頂におり、その象徴が桜です。逆に政言にとっては、枯れてしまったって桜が佐野家そのものだったのです。こんなち皮肉はありません。
これから誰袖は、幸せの絶頂から、まっ逆さまに転落します。頂が高いほど、その衝撃は大きい。これが、森下佳子の脚本の凄みです。意知が、殿中で佐野から刃傷を受けるという史実をもとに、ここまでいきさつを膨らませる。
しかも、歴史を知っている私達は、その絶頂がすぐに終わってしまうことを知りながら、ドラマを見ているのです。誰袖が喜べば喜ぶほど、それは切ない。
来週は、選挙でお休みだそうです。そいつはまた、殺生な。