かなり昔ですが、倉本聰さんのエッセイに、こんな内容のものがありました。


倉本さんは、書店で、ある作家の小説を探していたそうです。その小説のことを、書店員の女の子に尋ねると、彼女は、その作家の小説が、いかに素晴らしいか、そして今、「白い影」という作品が、ドラマ化されていることを、滔々と説明したそうです。


倉本さんは、「そのドラマは、私が書いている」と言ったところ、女の子は、絶句し、「まさか、渡辺淳一先生?」と尋ねられたため、「いえ、ドラマの脚本のほうで」と答えると、大袈裟に、「なーんだ!」とがっかりされたそうです。


倉本聰さんでさえ、当時はそんな扱いだったそうです。


だから、向田邦子さんや平岩弓枝さんは、小説の道に進みました。脚本家の地位は、小説家に比べ、はるかに下でした。


いま、テレビや映画には、マンガを実写化されたものが溢れています。特にテレビドラマにおいては、毎回、膨大な数のマンガが原作のものが、制作されております。


私など、粗製乱造だとしか思えません。そして全てとは申しませんが、そこには、原作に対して、愛情を持っているとも思えないのです。


何度か書きましたが、私は、マンガをほとんど読みません。なので、原作との差異をわからないうえで書きますが、野木亜紀子さんが脚本を書いた、マンガが原作の作品は、ドラマとして、極めて良く出来ておりました。


今回の、「セクシー田中さん」を、私は、見ておりませんが、脚本を担当した、相沢友子さんは、「ミステリと言う勿れ」を書いており、おのドラマは、単純に面白いと思いました。「鹿男あをによし」は、小説が原作ですが、これも面白かったのを記憶しております。


ただ、当たり外れが大きく、私が見たドラマでも、これはあかんと言うのもいくつかありました。「セクシー田中さん」は見ていないので、このドラマについては、何かを言う資格はありません。しかし、亡くなるというのは、よっぽどだったのでしょう。


さらに、ドラマのことは勿論ですが、信頼していた誰かに裏切られたとすれば、これは堪えます。野木亜紀子さんなど、かつて、原作者に会いたいと伝えたところ、スタッフに止められたそうです。要するに、めんどくさいのです。余計なことをするなということです。


倉本さんは、こんなような内容のことも、かつて書かれておりました。ドラマのなかにも、これに近い台詞があったと記憶しております。


テレビというのは、当初無垢な夢の箱だった。それを、よってたかって、金に目のくらんだ連中が汚してしまった。


ドラマに限らず、いまのテレビの惨状を見るにつけ、倉本さんの言っていることが、胸に沁みます。