NHKのBSで、「アイドル誕生」が放送されました。作詞家の阿久悠を主人公にして、伝説のオーディション番組、「スター誕生」にまつわるエピソードを中心にして、描かれておりました。特に、阿久悠が手掛けたピンクレディーと、ソニーのプロデューサー、酒井政利が手掛けた、山口百恵を対比させておりましたが、さすがにこれはまずいのではないかという描写がありました。


元々、ピンクレディーは、当初は全く期待されておりませんでした。ドラマにもあった通り、あの頃の8月末の発売というのは、その最たるものでした。


当時は、レコード大賞などの賞レースは、歌謡界の王道で、11月くらいからは、毎週のように○○大賞が、各局で放送されておりました。当時の新人など、すぐには売れません。つまり、8月末では、遅すぎるのです。そして、事実、「ペッパー警部」は、オリコン初登場99位という、最悪のスタートだったのです。


ドラマでは、その遅いスタートにも関わらず、「ペッパー警部」はヒットして、レコード大賞の新人賞をとったとなっておりました。


これ、間違ってはおりません。間違ってはおりませんが、ここがミスリードなのです。


ピンクレディーは、新人賞であって、最優秀新人賞ではないのです。最優秀は、内藤やす子でした。歌謡大賞は、最優秀がふたりでしたが、もうひとりは、新沼謙治です。要するに、最優秀は、ひとつもとっておりません。だいたい五人選ばれる新人賞のうちの一組でした。この年であれば、あとは角川博と芦川よしみでした。大変失礼ながら、当時の芦川よしみなど、全く無名でした。


しかし、毎週のように行われていた、賞レースにおいて、必ずノミネートはされていたため、テレビでは絶えず、「ペッパー警部」が流れていたのです。あの歌は、踊ってなんぼです。そして、当初下品と言われていた、あの踊りに、子供たちが食いついた。それで、みるみるチャートが上がったのです。それからのブレイクは、皆さんが知っている通りです。


ドラマでは、新人賞、大衆賞、レコード大賞と、トントン拍子に受賞したとなっておりました。そして、山口百恵との対比にも、問題がありました。


確かに、セールスにおいては、山口百恵は、ピンクレディーには敵いませんでした。賞など、ひとつもとっておりません。


ピンクレディーの時代は、間違いなくありました。しかしそれは、ほんの数年で、急激にセールスは落ち、雨の後楽園球場で行われた解散コンサートは、満員にすらなりませんでした。


逆に、山口百恵は、賞はおろか、ヒットチャートで、100万枚を売ったこともありません。しかし、彼女は伝説になりました。セールスでは、ピンクレディーの圧勝ですが、後世に語り継がれたのは、圧倒的に山口百恵なのです。


それを、何かピンクレディーが、全てにおいて上回ったような描きかたをしており、それが即ち、阿久悠が酒井政利に敵わなかったようになっており、私はどうかと思いました。「横須賀ストーリー」、「プレイバックパート2」、「秋桜」、「いい日、旅立ち」、「さよならの向こう側」、「ロックンロールウィドウ」と、宇崎竜童が関わってからの山口百恵は、名曲揃いです。


また、これは予想はしておりましたが、何度も書いた通り、なぜ、「スター誕生」が製作されたかは、触れられておりませんでした。セリフのなかで、チラリとは語られてはおりましたが、あの番組は、やむにやまれず作られたものでした。


当時は、ナベプロの全盛期で、ジャニーズと吉本興業を足したような会社といえば、おわかりでしょうか?あまりの横暴に、当時のプロデューサーが、ナベプロと決裂して、日本テレビはナベプロのタレントが使えなくなりました。


そのため、自前でスターを作らなければならないという必要性があり、あのようなオーディション番組を作ったのです。


ナベプロに、正面切って戦争を仕掛けた、日本テレビのプロデューサー、井原高忠さんも登場しませんでした。恐らく、萩原聖人が演じていた、岡田というプロデューサーが、井原さんの後輩で、「スター誕生」のプロデューサーだった、池田文雄さんがモデルだと思います。


ナベプロがまだ存在するのと、他局のことなので、あえてそうしたのでしょう。いずれにせよ、ホリプロやサンミュージック、バーニングなどのプロダクションが、「スター誕生」に協力し、新しいスターが続々と産まれ、ナベプロは逆に独立するタレントが相次ぎ、どんどん力が落ちていきました。


歴史は繰り返すとは、よく言ったものです。


ただ、阿久悠に扮した宇野祥平、都倉俊一役の宮沢氷魚、酒井政利役の三浦誠巳、いずれも好演でした。土居甫役の迫田孝也には、大笑いしましたが。


かつて亀梨和也が、阿久悠を演じたドラマがありましたが、あれよりは遥かに良く出来ておりました。それは、間違いありません。


※酒井政利が、阿久悠に、一度も曲を依頼しなかったというのは、全く知りませんでした。ふたりとも、あれだけの曲に関わっていたので、びっしりしました。


阿久悠が、山口百恵に詞を書きたかったというのは、本人の著作で読んだことがあります。初期は千家和也、ピークは阿木燿子でしたので、あの松本隆ですら、数曲だけでした。


阿久悠ならば、どんな詞を書いたか、一曲だけでも聴いてみたかったと、私も思います。