サンミゲル デ アジェンデ
メキシコの街にはほんとにたくさんの教会があって、教会を見つけるたびに中へ入って椅子に座ってみる。
私自身は無宗教なんだけども、教会の中っていつも静かで冷たくて心地いいから好き。
サンミゲルの街も、本当に至るところに教会がたくさんあって、なんでこんなにたくさんある必要があるんやろーかって謎に思った。
決して大きな街ではないのに、この街には教会が10個近くある。
旅行者用の地図に書いてある教会だけで10個なんだから、きっともっとあるだろうな。
カトリックやクリスチャンやら、いろんな種類があるんだろうけども、こんなにも建てる必要あるのかなぁ?
建てられた時代が違うのかなぁ。
教会だって、しっかりした作りだし、お金だって結構かかるだろうに。キリストが真ん中にいて、祀ってある(祀るという表現が正しいのかは謎)人物とかは同じぽいのに。こんなに必要なのかー??
と、教会の椅子に座って、私は謎に思ったのです。
いろんな国に行ったけど、どの国にも教会があって、イエスキリストを信じてる人たちがいて。
人にとって宗教ってなんなんだろうなぁ。
世界には数え切れないほどの宗教があって、それを信じる。
信仰することによって幸せに感じる人もいるし、宗教の違いで啀み合い戦争も起こる。
人は何かを信じ、頼らなければ生きてはいけないのか。
無宗教、と言いながら、結局私のベースにあるのは仏教だし、あたしはやっぱりブディストなのか?とか、無限に考えてたら教会に入ってから一時間なんてあっという間に過ぎていったのでした。
宗教の話は仲のいい人ともしちゃいけない、って言うほど、人それぞれの意見があるし、信仰も違うし、トラブルになりやすい。
話は遡り、イスラエルのエルサレムに居た時の話。
あの街は本当にいつ何が起きてもおかしくない街。
ユダヤ教のゴールデンドーム、キリストが十字架を背負って歩いたと言われる道、イスラム教の嘆きの壁。
それぞれの宗教にとって大切な場所が、エルサレムの小さな町に集まっている。
すべて歩いて行ける距離に。
ユダヤの国、イスラエルはエルサレムを首都として定めたいけれど、それに反発するイスラム教のパレスチナの人々。
そりゃそうだ、自分たち宗教にとって大切な場所を、他の宗教の国の人に取られたくないものね。
ってことで、エルサレムは取り合いになり、トラブルの火種になるため、エルサレムの街は、国連の物と定められたのです。
そんなことを思い出した。
もちろん宗教のことだけではないし、長い歴史の中で国土の取り合いとなったわけだけど、いつの時代にも宗教戦争ってのはあったわけだ。
こんなにも人を信仰させ、狂わせる物ってなんなんや。
日本にいたら、大して宗教のことなんて考えなかったけどなぁ。
タイやインドで見た、ブッダにお花をあげ、線香を焚き祈る。
中東国家で見た、1日5回のお祈り。女性は個人では行動できずに、ヒジャブという被り物をして外へ出る。
教会へ通い、キリストの前に跪き、胸の前でクロスを描く。
信仰する対象ややり方は違うけれど、祈る、という事は同じだ。
実在する人なのか、空想の人なのか、それは宗教により違うんだろうけど、少なくとも、今生きてる人たちが実際に見て、信仰してる神はいない。
私たちが生まれた時からすでにもうキリストもアラーもブッダもいなくて、石像や、銀盤に彫ってあったりと、すでに作り物になっていて、言い伝えや本に書いてあることだった。
自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自らの体験からしか学べないんじゃないのかなぁ。
なんでこんなにもたくさんの人たちが、ただの言い伝えや本に書いてあるだけのことを信じてるのか、単純に不思議に思った。
ただただ不思議に思うだけで、絶対に答えは出ないし、答えを求めてるわけでもない。
ただただ、不思議だなぁ、と思う。
宗教は、いろんな側面を持ってるんだなぁと思う。
あたしはきっとこれからも、教会を見つけたらふらっと入って休憩所として使わせてもらうし、涼みに入る。
神社やモスクもそういう使い方していいんだろうか。
怒られちゃうかな。
教会だってそんな使い方しちゃいけないのかもな。
私の中に枠はない。
だからこそ、疑問に思うし、考える。
きっとそれでいいんだと思う。
考えたり疑問に思うことはとっても大切なこと。
それはきっと次の知識へつながる。
さぁ、また今日も不思議な世界を見に行こう。
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