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映画「花束みたいな恋をした」と「私をスキーに連れてって」を見た。
めちゃくちゃ年代の違う映画二本。
公開が2021年と1987年だから34年も違うw
テイストも全く違うが、どちらも恋愛を題材にした映画だ。
内容はどちらもとても面白いのでまだの人には是非おすすめしたいところだが、今回気になったのはこの二本の映画の男女のコミュニケーションの取り方の違いだ。
34年も経つと、男女のコミュニケーションの取り方も随分変わったんだなと感じる。
「花束みたいな〜」は主演の菅田将暉と有村架純の会話がとても自然な感じに聞こえるのだが、「私をスキーに〜」の主演の三上博と原田知世の会話にはとても違和感を感じる。
これは演技が上手い下手の話ではなく、今は2022年だから時代感覚が「花束みたいな〜」の方がしっくりくるってだけだろう。
まず率直に感じたのは「私をスキーに〜」の方の男女の会話は男がやたらと偉そうに喋ってるように聞こえるのだ。
そして女は女でとにかく受け身で「私の気持ちをもっと察してよ」感が強い笑。
シンプルにお互いに口数が少なく、そこに違和感も感じる。
もちろん映画のテイストや役柄によるところもあると思うが、当時の男女の恋愛観がこういうノリだったんだろうなというのが伝わってくる。
それと比べると、「花束みたいな〜」の男女はよく喋るしお互いに自己表現をする。
決して口数の多いような役柄ではないが、「私をスキーに〜」に比べるとすごく心の動きなどを自分なりに表現するなと感じるのだ。
この34年の間に男女のコミュニケーションが変化したんだろうと思った。
男は口数が少ない方がいいとか、女は黙ってついて行くなんて昔の価値観はかなりアップデートされたのだろう。
男も女も両方とも丁寧に言葉で表現している印象だ。
そして、男が女に接する感じもかなりソフトな態度に変わったと感じる。
「花束みたいな〜」に対して「私をスキーに〜」の男が偉そうに感じるのはそういうことだろう。
「私をスキーに〜」では、男の女に対する当たりが強いのだ笑。
当時はこれが自然だったのだろうが、今の感覚では違和感を感じる。
そして口数に関しても、今の男女のカップルの方がお互いによく喋るのだろう。
逆に考えれば、今の恋愛は言葉での表現がある程度上手じゃないと難しいのかもしれない。
「昔は良かった」とか「今の方がいい」などと言いたいわけではない。
その時代感覚に合わせていかないと恋愛市場では戦えないという話だ。
今は言葉の表現を使いこなせる方が有利だろう。
そして本当に大事なのは、男女の求める本能は時代感覚ほどアップデートされていないということだ。
言葉を使いこなしながら、お互いの本能を刺激し合わなければモテないのが現代の恋愛だ。
難しいのは、表面的なテクニックばかりに気を取られ、上部だけの男女対等なコミュニケーションを意識したところでモテないところだ。
結局はお互いに男として女として「グッとくる」かどうかが大事になってくる笑。
これを維持し続ける男女としての振る舞いも大事だ。
恋愛は身近なものだが、ここを掘り下げたものは少ない。
大好きな彼との長い関係の維持は難しいものだから、この辺の役割分担を言語化しているものがもっとあってもいい気がする。
現に「花束みたいな〜」の男女もここがうまくいかなかった。
恋愛は身近で手軽だが、簡単ではない。
人を愛し続けるにはそれを知るための傷が必要なのだ。
傷を負いながら、男を知り女を知る。
あなたも手負いの愛の戦士となれ。
オレはそう思っちゃうんだよね
恋愛マスターくじら