アンさんが到着したらしく、警察官が一人、部屋に入ってきた。扉が音を立てないように閉められ、「彼女が今署に着きました。これから事情聴取に入ります。終わり次第、またこちらへお呼びしますので、もうしばらくお待ちください」と簡潔に告げる。私はうなずくだけで、すぐに警察官は部屋を出ていく。


正直、もう彼女の顔は見たくなかった。できれば、警察を介して話を終わらせ、互いに関わらない形で締めくくりたい。そう考える一方で、ここまで来てしまった以上、何かしら自分の手で区切りをつけなければ終わらないのかもしれない、という思いもかすかに頭をもたげる。椅子の硬さや、壁の白さばかりが気になって、時間の流れが掴めない。静けさが、かえって落ち着かなかった。


一時間半ほど経って、同じ警察官が戻ってきた。表情は崩さないが、少しだけ疲れが見える。「会わずに終わらせるのは難しそうです」と前置きしてから、淡々と状況を伝えた。彼女は自分が被害者だと主張しており、むしろストーキングされる恐れがあると言っているという。私には意味がわからない。あの包丁の件についても、「身を守るためだった」と説明しているらしい。こちらの記憶と、向こうの語りが別の線路を走っているようで、どこにも交わる点が見えない。話が噛み合わない、と感じた。


それでも警察は、彼女に「どちらが悪いかの結論ではなく、互いに距離を置くことが最善です」と繰り返して説得した様子だった。ここで終わりにするのがベストだ、と。さらに、私に「向こうが何を言うか分かりません。理不尽に聞こえることがあっても、反論は控えてください」と念を押される。私が何かを言い返すことで、また新しい問題が生まれる可能性があるのだろう。そこに至るまで、警察側にも相当な調整と説得があったのだと察した。


条件は二つだという。ひとつは、私が撮った免許証の写真や、二人で撮った写真をすべて削除すること。もうひとつは、私の妻に電話をして、今回の件を私が話しているか確認したい、というもの。二つ目は、私が妻に隠したまま逃げ切ると疑ってのことだろう。自分だけが傷ついて、私だけが何も背負わずに終わる——それが許せないのだと思った。私の側にも落ち度や未熟さがあったことは否定できず、その点で反論の余地はないと感じる。


幸い、私はすでに妻へ正直に話していた。妻の仕事の時間帯を考えると、電話に出ない可能性もあるが、それでも構わないと伝える。警察官は「つながれば短い確認で構いません」と付け加えた。私は深呼吸をひとつして、発信ボタンを押す。コール音が二回、三回と続き、部屋の静けさに規則的な音が重なる。


やがて妻が出た。ちょうど仕事が終わったところだという。私は状況を手短に説明し、これから相手側の確認が入ること、ひとまず双方が関わらない形で終える方向で話が進んでいることを告げた。妻は「わかった。大丈夫」と落ち着いた声で答える。私の声がわずかに強ばっているのを、いつもどおり見抜いたのかもしれない。


通話をつないだまま、私は席を立つ。体を伸ばすと、背中のこわばりが少しだけほどけた。ドアの前で一拍置き、警察官にうなずく。これから向かう先で、何を言われても余計な言葉を飲み込む、それだけを自分に言い聞かせる。歩き出すと、床の感触が確かで、足音が静かに続いた。彼女の待つ部屋までの距離は長くはないが、間にあるいくつかの角が、思った以上に遠く感じられた。