その週の引き継ぎは、なんとかこなした。
引継ぎ期間中は本部に詰めて研修が中心だったが、オフィスの電話が鳴るたびに身体がびくりと反応した。
事務の女性が怪訝そうな表情で外線に出るたびに、
――ついにアンさんが会社へ電話してきたのではないか
という恐怖が胸を締めつけ、心臓が痛いほど脈を打った。
そんな状態での1週間だったが、どうにか引継ぎ日程を終えた。
週末の金曜日には歓迎会が予定されていたが、
「急遽、自宅に帰らなければならなくなった」と理由をつけて断り、
単身赴任先の部屋へ向かうために新幹線へ飛び乗った。
本来なら前週末に引越準備を終え、
その週末は家族の自宅へ帰る予定だった。
だが、そんな計画はもう跡形もなく消えていた。
午前0時前、単身先のマンションに着いた。
まずはベランダ側から部屋の様子を伺った。
電気は真っ暗だった。
――いない。
そう思い、少し安堵した。
だが次の瞬間、背筋に冷たいものが走った。
「いや、電気を消して寝ているだけかもしれない。」
オートロックの玄関へ回り、キーケースを取り出した。
……鍵がない。
オートロックと部屋の鍵は共通なので、どちらにせよ入れない。
なぜ?
落とした?
いや、そんなはずはない。
まさか――アンさんが抜き取った?
疑念と恐怖が一気に膨れ上がり、思考がぐらついた。
建物に入れないので、他の住民が出入りするタイミングを待ち、
どうにか中へ入った。
部屋の前で耳を澄ませた。
物音はない。
部屋は暗い。
インターホンを押しても反応はなかった。
――いない。
胸を撫でおろしたが、部屋には入れない。
そのとき、ふと思い出した。
この物件では最初に合鍵を五つ渡されていた。
普段使う自分の鍵が一つ。
引越準備を手伝ってくれるということでアンさんに渡した鍵が一つ。
残りの三本は、なくさないよう下駄箱にまとめて保管していた。
そして、引越し当日に自分が立ち会えない可能性もあったため、万が一のときはアンさんに引き渡しを任せようと考え、自分が使っていた鍵も下駄箱に入れていたのだった。
仕方なく鍵のレスキューを呼んだ。保険のおかげで無料対応、業者到着まで約1時間。
作業でさらに1時間かかり、ようやく部屋の中へ入れた。
部屋は……異様なほど整然としていた。
洗濯物はきちんと畳まれ、ベッドの上に種類ごとに並べられ、荷物はすべて整理され、段ボールに綺麗に収められていた。
その光景を見た途端、妻の「メンヘラ」「頭がおかしい」という言葉が頭をかすめた。だが、こんな几帳面で丁寧な跡を見てしまうと、本当に自分へ害を与えようとしている人間なのか疑わしく思えてくる。
むしろアンさんの言っていた
「本当のあなたを理解できるのは私だけ」
という言葉が不気味な説得力を帯びてよみがえった。
――自分のことをわかってくれるのは、彼女だけなのではないか。
――家族は崩壊しかけている。
――フワちゃんとの関係も終わるだろう。
そんな考えが、静かに頭の中に広がっていった。
「……いっそ、アンさんと一緒になったほうがいいのかもしれない。」
危険な思考が一瞬、心を支配した。
だがすぐに我に返る。
――何を馬鹿なことを考えているんだ。
明日はついにアンさんと直接会わなければならない。警察に相談するべきだと思いながらも、「会って話せば何とかなる」とどこかで甘く考えていた。
自分ではまだ冷静なつもりでいた。
「警察は最後の手段だ」と楽観していたその考えが、後にあっけなく打ち砕かれることなど、まだ想像もしていなかった。
