翌日、アンさんにメールを送った。
帰ってきたこと、そして鍵を返してほしいこと。その二点だけを簡潔に伝えた。


家で二人きりで会うことだけは、どうしても避けなければならなかった。
頭ではなく、身体が拒否していた。


場所を慎重に考えた。周囲がうるさすぎず、しかし完全な密室でもない場所。もし声を荒げることになっても、すぐ近くに他人の気配がある場所。そこで思い出したのが、以前アンさんと二人で行ったことのあるレストランだった。

バーのような雰囲気の店で、喫煙席は店外に設けられている。店外とはいえ屋根があり、観葉植物で席ごとに仕切られているため、視線は遮られる。
だが、完全に孤立はしない。

逃げ道がある場所。


それが条件だった。


私はアンさんに、15時にその店に来てほしいとメールした。私の中では、事態をこれ以上悪化させずに終わらせるための、最後の妥協だった。だが、その期待はすぐに裏切られた。


「なんで、そこに行かなきゃいけないの?」


理由を何度も、何度も聞かれた。

家で会おうと言われ、それは無理だと伝えた。一人で会うのが怖い、と正直に書いた。すると返ってきたのは、謝罪でも理解でもなかった。


「私をそう変えたのは、あなたでしょう」


その言葉だけが繰り返される。まるで、恐怖を感じている私のほうが間違っているかのように。

レストランでは会わない、家で会う、その一点から一歩も動こうとしなかった。

その瞬間、はっきりとわかった。もう、話し合いではない。私は覚悟を決めた。大事になろうが、どう思われようが、もうこれ以上は無理だ。警察に相談することにした。


妻から提案されていたことでもあった。それに従うことが、もしかしたら妻との関係をつなぎ止める、最後の可能性かもしれない。私は警察に向かう決意をした。


正直、警察には良い印象を持っていなかった。だが、そのときの私は、警察以外に頼れる場所がなかった。

実は引き継ぎ期間中、仕事が終わってから警察相談窓口「9110」に電話をしていた。これまでの経緯を、淡々と説明した。返ってきた言葉は、思っていたものとは違っていた。

「『殺す』と言われているわけではありませんよね」

「『死んでやる』と言って自分に包丁を向けているなら、『どうぞ』と言っても構いません」
「もし本当に刺すなら、救急車を呼んであげてください」

私に向けられた殺意ではない。だから、今の段階では脅迫罪には問えない――そう説明された。理屈としては理解できた。

だが、胸の奥に残ったのは、別の感覚だった。「それでも、会って話したほうがいい」「どうしても無理なら、警察署に来てください」と言われた。この相談内容は警察署にも共有しておく、と言われて電話は終わった。


そして私は、最後の手段として警察署を訪れた。
受付で、数日前に9110へ相談していることを伝えると、担当者はすぐに事情を察したようだった。

私は何も言われないまま、静かな別室へ通された。
そこで、さらに詳しく話を聞かれることになった。

警察は「最後の手段」だと、どこかで距離を置いて考えていた。まだ自分の手で何とかできる、そう思い込んでいたのだ。この認識が甘かったことを、後になって静かに思い知らされることになる。