毎日のセッションで、さまざまな方を観ていると
どんな背景を持っている人でも
どんな過去を背負っていても
たいてい
誰かを救いたいがために
誰かの悲しみを拭い去りたいがために
我慢したり
がんばってきたり
自分を責め続けたり
そんな健気な子供の頃の様子が
観察できます
救いたかった人は
不仲な両親であったり
毎日不幸を嘆いている母親であったり
不憫な兄弟であったり
いつも誰かのために
我慢して、耐えて、言いたいことを抑えて
それで損になることはあっても
人に誤解されることはあっても
ひたすら自分自身をないがしろにして
誰かを救いたいがために懸命にやってきた
自分が
誰かの犠牲になっていることにも気がつかずにー
でも、悲しいかな
どれほど懸命にやってきたとしても
結局誰も救えないことはしばしばある
両親は相変わらず不仲で
今日も母は父に殴られている
弟は相変わらず母の愛情に飢えている
父親は今夜も社会の不満を酒とともに呑みほしている
その、何もできなかった無力感が
悲しみになり
ときには強い怒りに発展し
自分に対して
ますます刃を向ける
ますます人に対して
怨念を持つようになる
そういったことも
もともとは
子供だった頃の可愛い勘違いだったのに
それが勘違いだということに気づかず
大人になってしまった人はたくさんいる
ほんとうは
誰も救う必要はなかった
母を守ってきた小さな掌は
父の腕力にくらべるとひとたまりもない
けれど、幼さゆえに
そういったことをわからず
ただ、救えなかった自分に対しての怒りや虚しさばかりが残っていく
なぜこんなに毎日虚しいのだろう
なぜこんなに自分を責めてしまうのだろう
なぜこんなに怒りが止まらないのだろう
なぜこれほど社会が憎いのだろう
・・・・・・
大丈夫
あなたはあなたで すでにそしていまも完璧な存在だ
誰のために罪悪感に苦しむ必要はないし
誰のために謝罪しなくてもよい
もう
誰かを救えなかった自分ではない
本当に救われるべきだったのは
自分自身だった
そのことに気づいてほしい
※こちらの記事は2016年12月のものです
12.15 寝室からの満月と富士山
