以前、大阪に行く新幹線に乗る前、駅で時間つぶしにと
こんな本を買いました。
『エッシェンシャル思考』
その本の中に、あるエピソードの紹介がされてました。
将来著名な映画脚本家にある女性が、高校時代
ジャーナリズムの入門編を学んでいました。
その初回の授業で、下記の文章を要約せよ
と、課題が出たのです…。
「ビバリーヒルズ高校のピーターズ校長は今朝、職員一同に研修旅行の知らせを告げた。来週木曜、職員全員でサクラメントへ行き、新たな教育メソッドに関する会議に参加する。当日は人類学者のマーガレット・ミードや教育学者のロバート・M・ハッチンズ、カリフォルニア州知事のパット・ブラウンによる講演も予定されている。」
さあ、どういうふうに要約しますか。
生徒全員の要約文は不合格でした。
そして、正しい要約は、これだと。
「来週木曜は学校が休みだ。」
(抜粋・編集『エッシェンシャル思考より』)
これこれ!こういうこと!
書かれていること、より
書かれていないこと、に
本質はある
ということですね。
書かれている内容に捉われて、
それをどれだけ簡潔に省略するか工夫しちゃうけれど
そういうことじゃないんだ。
言っていないことに
どれだけ気づけるか。
これは、まさしくわたしの仕事にも似ているなと思った。
(いや、人生にも似ている)
男女の会話のすれ違いもね。
目の前の彼女が仕事のグチばかり言っている
「それってさ、こうしたらいいんじゃね」
「こう考えたらもっとラクになるよ」
「相手はそんなふうに思っているわけじゃないと思うよ」
と、解決案を出しても、彼女は納得していない風。
(何がいけないの?)
(何を求めているの?)
と、男は悶々とする…
結局、女性は問題の解決を求めているわけじゃなくて、
淋しいという気持ちを
わかってほしいだけだったりする。
言葉に出していることが問題ではなく
言っていないことやものを
どれだけつかめるか。
肩がガチガチに固まっているからって
姿勢や筋肉や血行が悪いわけではなく
それらが原因ではなく
(それはむしろ結果です)
それに対してどう処置するかより
自分に自信がなく緊張してしまう
とか
自分に対して罪悪感がある
とか
「ねばらならぬ」や「べき」が強い
とかいう
内側にあるメッセージの表れだったり
そういうセルフイメージの体現だったりするので
その自己像や世界観にアプローチした方が
よかったりします。
施術では、やはりこちらの方が
功を奏しております。
精神がからだというスクリーンに
自らを多様に映し出している
わけですね。
からだの内部の世界、つまり
ホルモンや細胞や血行や自立神経が原因で
そうなるというより
捨てられない意識
頑なに抱いているセルフイメージ
人間って世界ってこういうものでしょう
という思いや世界観が下地になって
からだの内部の世界を
つまり、ホルモンや細胞や神経という物理的なものを
支配していくものです。
(そうじゃない場合もあります)
なので症状が表れたときは、自分を
反省しないで
判断しないで
否定しないで
あれ、自分けっこう無理しちゃってる
ちょっとぼちぼちでいこうかね
そんな追い込まなくてもいいんだね
や、もう力抜いていこうかね
できなくたって大丈夫でしょ
いや自分、なにを気負っているのかな
そんな大した自分じゃないから、もっとラクにいこうかね
がんばらなくっても、孤立しないし
人の期待に応えようとしなくてもいいし
なにがんばってたのかな、誰に認めてほしかったのかな、ハハ
そういえばおれもともと認められてたし
とか思えると、いいですよね!
(ま、思えないからしんどくなるわけですが...)
からだに現れた症状は、しばしば
それ自体が問題ではないのです。
「痛み」そのものが問題ではなく
「痛み」をどうにかするものではなく
「痛い」って言っているとき
そもそもあたくしのこころは、
現実をどう捉えていて
そこから、何を訴えているの?
ということです。
あたくしのからだったら
ほんとうにこころの状態に従順であることよ
ということです。
語られていないことに、真実はある
沈黙はおしゃべよりも真実を雄弁に語っている
見えていないところに、本質は表れる
ということですよん~
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