寺島実郎著『ダビデの星を見つめて』を読んで(7) | フォノン通信

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第2章 アメリカとユダヤ

<トランプの岩盤支持層たる福音派プロテスタント
・・・「キリスト教のユダヤ化」とでも言うべきキリスト教シオニズム>
←この節のタイトル



【引用開始】
問題は、なぜ白人のキリスト教プロテスタントの人たちがトランプを支持し、イスラエル政策に共鳴するのか、そして、なぜ福音派の人たちはユダヤ人でもないのにイスラエルを支持するのか、である。


それを、理解するためには、アメリカにおけるキリスト教プロテスタントの成り立ちについて、理解しておかねばならない。
(中略)
アメリカのプロテスタントは細かな宗派に分かれるが、大きくは主流派と福音派の二つに分けることができる。

 

両派が分かれたのは、19世紀末から20世紀前半にかけての進化論論争である。
【引用終了】

★ハマスとイスラエルの戦争において多くのガザの市民が虐殺されてもアメリカはイスラエル支持を堅持している。

 

それはなぜなのか。アメリカにいるユダヤ人の人口はアメリカの人口の約2%にすぎない。

 

それなのになぜアメリカはずっとイスラエルを支持し続けているのか?

 

この疑問に寺島実郎は答えてくれる。引用を続けよう。

【引用開始】
ダーウィンの進化論を支持する科学的な証拠が積み上げられるなか、学校教育の場でいかに進化論を教えるかをめぐって進化論裁判が開かれ、1920年代には進化論を認める立場の人たちが勝利した。

 

しかし、その結果、プロテスタントの間に分裂が起き、前者のリベラルな立場の人たちは主流派となり、後者の保守的な立場の人たちは福音派(エバンジェリカル)となっていくのである。
【引用終了】

★プロテスタントの福音派の人たちの多くはトランプを支持し、イスラエルも支持している。それはなぜか。寺島実郎氏の解説を続ける。

【引用開始】
ここで、「福音派プロテスタント」とユダヤの関係について、踏み込んでおきたい。

 

全米福音同盟が設立されたのは1942年、第二次世界大戦中であった。多様なプロテスタントの教派の中から伝統的な教理を守ろうとする穏健なファンダメンタリストやルター派、さらには保守的なカルヴァン派のグループが参加していった。
(中略)


大きな転機を迎えるのは21世紀に入っての9.11の衝撃であった。


米国中心部を襲った「イスラムの脅威」への危機感を背景に、福音派の中から「キリスト教シオニズム」と言うべき考え方が台頭してきたのである。

 

キリスト教のユダヤ化と理解してよいであろう。


2006年に通常CUFIと呼ばれる「イスラエルを支持するキリスト教連合」が設立され、ロビー活動を活発化させた。


「ユダヤ人を聖地エルサレムに帰還させ、キリストが再臨したならば、多くのユダヤ人もイエスをメシアとして認めるであろう。

 

そのためにもエルサレムはイスラムの支配地であってはならない」という考え方で、CUFIのロビー活動は、ワシントン最強のロビー集団と言われる。

 

ユダヤ人による「アメリカ・イスラエル公共問題委員会」の活動と微妙に連動しながら、影響を強めていった。

 

ユダヤの側からすれば、少数派の限界を突き破り、キリスト教にシオニズムを注入することで、ユダヤ、イスラエルの利益を拡大しようという意図なのである。
【引用終了】

★2001年の9.11がきっかけとなり福音派の中に「キリスト教シオニズム」と言うべき考え方が台頭してきたという解説を読み疑問が解消しました。

【引用開始】
アメリカは、先述のごとく全人口の7割に近くがキリスト教徒であり、その内訳はプロテスタントが45.6%、カトリックが21.8%である。福音派は全人口で」みると約25%を占め、最大の宗教勢力と言われほどの存在となった。
(中略)


トランプはその大統領の任期の間に、福音派諮問委員会をつくり、福音派との公約を実現していった。

 

それがエルサレムへの米大使館の移転(2018年5月)であり、ゴラン高原のイスラエル領組み入れへのコミット(2019年3月)であり、イスラエルとアラブ首長国連邦、バーレーンとの国境樹立(アブラハム合意、2020年9月)であった。

ユダヤ教を信じるユダヤ人にとって、ジーザス・キリストへの評価は、「神の子」というよりも、「ユダヤ教のラビの一人」にすぎないのだが、絶対神を掲げる中東一神教の基点として、教義の原点(旧約聖書の最初の五つの書である「モーゼ五書」)への回帰という一点で、福音派プロテスタントと共鳴するものがある。

【引用終了】

★註:「ユダヤ教のラビ」とはユダヤ教の宗教的指導者であり、聖職者でもあるような存在のことである。

◇今回はここまでです。次回があるか未定です。