再びイスラム教に焦点をあててみよう。イスラム教における信仰とは、何をどう信ずるかが、明確に特定されている
信仰とは、神、天使、啓典、預言者、来世、天命の六つを信ずることをいう。
これを六信という。
1.神(アッラー)・・・全知全能、遍在で天地とその間にあるすべてのものを創造した。
天地間すべてのものの支配者である。
神(アッラー)は唯一神であり、イスラム教は、その他の如何なる神も絶対に認めない。
2.天使・・・天使とは、神(アッラー)につかえる清浄な霊である。
天使の数は多いが最も貴いのが四大天使である。
トップは大天使ガブリエルで、神(アッラーの言葉を預言者ムハンマドに伝えた。
3.啓典・・・啓典とは、神(アッラー)が大天使ガブリエルを介して人に示した啓示の記録である。
全部で104あるが、中でも神聖なものは、①モーセに与えられた『トーラー(五書)』、②ダヴィデに与えられた『詩篇』、③イエスに与えられた『福音書』、④ムハンマドに与えられた『コーラン』の四書である。
なかでも、『コーラン』は別格である。
『コーラン』以外の啓典は、神(アッラー)の啓示の一部を示すにすぎないが、『コーラン』に限っては、完全な啓示である。
4.預言者・・・預言者とは、神意を人間に伝えるために神(アッラー)が送った人のことをいう。
神(アッラー)は、古来、多くの預言者、使徒を人間に送った。
預言者の中でも、特に重要であるのが、アダム、ノア、アブラハム、モーセ、イエス、ムハンマドの六人である。
最大にして最終の預言者が、ムハンマドである。
5.来世・・・イスラム教徒は、現世の後に来世があることを信じなければならない。
最後の審判で、神(アッラー)は、よいことをした人は楽園へ送り、わるいことをした人は地獄へおとす。
しかし、これは、仏教における地獄と極楽とは異なる。
仏教では地獄・極楽は実在しているとは考えない。
仏教では地獄・極楽は、ひとを善導するためのおとぎ話であるというべきである。
一方、イスラム教では、地獄も極楽(楽園)も実在していると考えている。
最後の審判を前にして、神は、人に完全な肉体を返してくださる。
手足目耳などを失った人は、完全に機能する手足目耳を返して下さる。
でも、ここでやれうれしやと喜ぶのは、おおいに早すぎる。
これから、おそろしい試練が待っているのである。
神(アッラー)は、精密に、現世の行動を吟味して評価したもう。
その怖ろしさ。ことの善悪は、『コーラン』『スンナ』(ムハンマドの言行集)などを法源とするイスラム法に、微に入り細をうがって、緻密このうえなく制定されている。
この最後の審判で有罪だと、地獄行き。
地獄で間断なく猛火にさいなまれる。
仏教のたとえでいうと無間地獄である。
最後の審判で無罪だと、楽園行き。
最高の肉体的快楽が保証されている。
仏教のような輪廻転生はないので、地獄におちたものには転生の機会はない。
地獄へ行ったら、それっきりである。
天国(極楽)へ行った人もそれっきりである。
この肉体的快楽と肉体的苦痛とがイスラム教の特色である。
この快楽か苦痛をうけるのは誰か。
それは生身の人間である。
このわたしが、このあなたが、生身の人間としてうけるのである。
魂が、地獄、極楽に行くのではない。
生身の人間が行くのである。
この点、仏教とは考え方が根本的に違う。
6.天命(カダル)・・・天命を信ずるとは、万物の生滅は神の意思による。
どんな小さなことでも例外はない。このことを信ずることである。
これは予定説であるが、宿命的な予定説である。
イスラム教徒による自爆テロのニュースは、あとを絶たない。
なぜ、自爆テロをするのか。
この自爆テロはジハード(聖戦)であるという。
アッラーのための戦い、すなわち聖戦(ジハード)で倒れた者は死んだことにならない。
いや、生きているのだ。
イスラム教の教えを守るために死んだ者は、最後の審判を前に完全な肉体を返していただき、緑園(天国)に入ることができるのだ。
生身の人間のまま、楽園に行けるという強い信仰があるからこそ、自爆テロを決行できる。
イスラム教とは、そのような宗教なのである。
★小室直樹の『日本人のためのイスラム言論』は、奥が深い本である。
ユダヤ教や仏教について論考を進めているページも多く、その辺についても触れたかった。
しかし、話がだらだらと続き、また「雑学散歩」にしては話が堅くなりすぎたので、この本についてはここで終了としたいと思う。
★以上は、私が2014年にこのブログに掲載した「本の虫の雑学散歩」から、著者の小室直樹氏がユダヤ教、キリスト教、イスラム教について解説した部分を抜粋して再掲載したものである。
★再掲載した理由。パレスチナ問題を考えるときのヒントの一つになるかもしれないとう思いがあったので再掲載しました。