小室直樹著『日本人のためのイスラム原論』を読んで(2) | フォノン通信

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☆前回の2014年5月の記事の再掲載の続きです。

 

『本の虫の雑学散歩(5)』という記事の再掲載の2回目です。

小室直樹著『日本人のためのイスラム原論』を読んでポイントをまとめたものです。

 

(再掲載開始) 

次に私たち異教徒には極めて分かりにくい、キリスト教の「予定説」について考えてみたい。


 キリスト教における「予定説」とは「その人が救済されるか否かは、すべて神によって決定されている」という思想である。

小室直樹は、この予定説のことを「まさにキリスト教をキリスト教たらしめている奇妙奇天烈な論理である」と述べている。
 
  その人が、人生のなかでどのような行動をしようが、信仰が浅かろうが深かろうが、その人が救済されるか否かは、すべて神によって事前に決定されている、というのだ。

 

つまり、予定説の論理では救済されるかされないかは、当人の行いとは全く関係ない。

では、救済されるかされないかは何によって決まるのか。それは、「神の意思」である。
 

この予定説を徹底的に信者に叩き込んだのは、宗教改革を推進した
カルヴァンである。このような教えを聞いたとき、熱心な信者ほど強烈な焦燥感を覚える。

 

はたして自分は救われているのだろうか、救われていないのだろうか、そのことが頭を離れなくなる。もちろん、その答えは最後の審判になるまで分からない。

だが、来世のことが気になってしょうがない。

 

 

 熱心なプロテスタントになればなるほど、救いを求めて聖書にすがりつく。

イエスの教えに従った生活をしようと考える。
 


 予定説の要諦は、「神に選ばれた人(救われる人)は、神の御心のままに行動するに違いない」という点にある。

 

救済されるか否かは、まさに神のみぞ知る。だが、救われるほどの人なら、けっして道を踏み外さないはずだというのである。
 
聖書の教えに忠実であるカルヴァン派の人々は、生活のありとあらゆる行動を徹底的に律するようになった。

 

信仰のためには、一秒、一瞬、一刹那たりとも懈怠(なまけること)せず行動すべしというのが「行動的禁欲の精神」である。
 
この行動的禁欲の精神は、「祈りかつ働け」というスローガンのもと、カトリック修道院の中で行われていたのだが、それが宗教改革から興ったプロテスタンティズムによって世俗の信者に解放されたのである。

 

さらに加えて、禁欲的プロテスタンティズムでは、「世俗の仕事」こそが神から与えられた使命であるという思想が強調された。

これをルターは「天職」と呼んだが、カルヴァンはこの「天職」思想の中に、行動的禁欲を押し込めたのである。
 
かくして、宗教改革以後のクリスチャンの間には「行動的禁欲によって天職を遂行すれば、救済される」という思想、もっと分かりやすくいえば「労働こそが救済である」という思想が確立した。

 
もうピンときた人がいるでしょう。そうです。

この「労働こそ救済である」という思想こそが、「資本主義の精神」の母体となったのである。

このことを指摘したのが、マックス・ウェーバーであった。

 
キリスト教の長い信仰の歴史があり、その後のカトリック教会の腐敗からルター、カルヴァンによる宗教改革が起こった。

 

そして、宗教改革よって生まれたプロテスタンティズムが近代資本主義を母胎になった。

 

この辺の事情は、高校レベルの世界史の教科書を読んでも全く理解できなかったが、小室直樹のこの著書のおかげで霧が晴れた思いであった。

(再掲載終了)

 

☆この記事には続きがあるので、あと一回掲載することになります。