ドストエフスキー『白痴』を再読して(1) | フォノン通信

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★死ぬまでに再読しておきたい小説だったドストエフスキーの『白痴』の再読を終えた。


 読了するのに一か月もかかってしまった。

★ドストエフスキーの5つの長編小説『罪と罰』、『未成年』『カラマーゾフの兄弟』、『白痴』、『悪霊』のなかで『悪霊』はまだ読んでいないので、いずれ死ぬまでには読みたいと思っている。

★『白痴』を初めて読んだのは23歳のときだった。

そのときはまだ就職はせず某大学院に籍をおいている学生だった。

このときはわずか4日で読了したと手記に書いている。

全部で約1,100ページあるから一日で約275ページ読んだことになる。

読んだのが8月なので夏季休業中でよほど暇だったのだろう。

★今回再読しての感想をまとめる前に、23歳のときに手記に書いた感想文を掲載することにした。23歳の時の方が感覚が鋭かったのか、いまでは表現できないような書き方をしている。


手記は、過去へ旅できるタイムマシーンのようなものである。

★ここから23歳のときの感想文です。

☆人の中にある感情の流れが乱れ、途切れ、錯綜している。
 人は愛なくして生きていけるのか。


全くの孤独の中にいて、全く人を愛することもなく、愛される     こともなく


それでいて、毅然とし、強く、魂のエネルギーを失わずにいることができるだろうか。


心に、すなおであり、強く、自らを主張すること=罪(?)

悪意へと転化

★主人公のムイシキンは、純粋無垢に生き、寛大に愛した。

★アグラーヤは、ねじれながら、乱れながらも愛した。

強い欲。ムイシキンを理解できた。

けれどもムイシキンを許せなかった。

そしてムイシキンを憎悪した。

★ロゴ―ジンは、あまりにも愛した。

そしてナスターシャを殺した。愛することは罪であるのか。

そして、十五年の流刑という罰があった。

★ナスターシャは、ムイシキンの神性を理解した。

しかし、自らの内なる悪しき声には勝てなかった。

苦悩の人。神性と獣性の葛藤の果て、ロゴ―ジンの匕首に刺され死んだ。

★イッポリート  18歳の君はするどく、頭のいい人だ。

そしてムイシキンを批判しながらも、ムイシキンを理解した。

体をむしばむ肺病のため、君はおそろしくニヒルだ。
そして、僕は君にひとつの純粋精神をみる。真摯であり、真理に忠実であることは、社会のなかでは「悪」にもとられうる。

すなわち、傲慢という烙印を押される。

それゆえにイッポリートの告白は「反抗の行為」である。

★五人とも強い個性をもっている。僕は特に魅かれたのは、ナスターシャとイッポリートである。

ムイシキンのパラドックス


他者に対する純真な愛情と寛大な心は、他者にとっては傲慢な行為ともうつる。


結局、アグラーヤを不幸にし、ナスターシャは殺されることになり、ロゴ―ジンは殺人者となり、ムイシキン自らは完全な「白痴」となってしまった。

☆小説『白痴』は何を伝えているのか。
僕は次のように思った。

ムイシキン公爵の神性は、悪魔性をまき散らしたといえるのではないか。

☆以上が昔の手記に書かれていた感想文である。


今回再読したあとの感想は次回の記事に載せたいと思います。
 

                  (次回につづく)