飛浩隆著『グラン・ヴァカンス』を読んで | フォノン通信

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飛浩隆著『グラン・ヴァカンス』



★このブログをされる方のなかにSFファンは、ほとんどいないようである。(たぶん)

☆いわゆる純文学というジャンル、SFというジャンル。日本のジャンル分けに疑問を感じる。
 
 SF作品にだって純文学である。

☆今年2月の東京新聞の記事でSF作家・飛浩隆を知った。この記事によるとSF小説ファンならば、飛浩隆のことは知っていて当然と書いてあった。僕は、まったく知らなかった。日本人のSF作家では、小松左京はかつてよく読んでいたが、その後読んだ日本人のSF作家の作品によいものがなかった。
 
 飛浩隆氏は、寡作の作家である。作家を主な仕事としてはいない。昨年末に出された短編集『自生の夢』は十年ぶりの作品集だという。
 
 文庫本にある飛浩隆の略歴を記しておきます。
1960年島根県生まれ。島根大学卒。大学在学中に第1回三省堂SFストーリーコンテストに入選、SFマガジン1983年9月号発表の「異本:猿の手」で本格デビューを果たす。以後、「象られた力」他の中短編を同誌に発表するが、1992年の「デュオ」を最後に沈黙。2002年に10年ぶりの著作「グラン・ヴァカンス」を刊行。これは、初の長編である。この「グラン・ヴァカンス」は、「ベストSF2002年」国内篇第2位になり、見事な復活を飾った。

 
 物語の舞台は、<数値海岸>の「夏の区界」と呼ばれる仮想リゾートである。このリゾートは、南欧の田舎にある港町をイメージしてデザインされた仮想のリゾートである。物語に登場するのは、「AI]である。
 さて、読者としての素朴な疑問は、仮想リゾートはどこにあるのか。コンピュータのソフトウェアーが作り出した仮想空間のなかにあって実体のないものなのか。AIと書かれている「AI]って「人工知能」なのであろうが、人工知能を持ったロボットかサイボーグを著者はイメージしているのだろうか。これらは、読後のいまでも疑問である。

「夏の区界」は、ゲスト(おそらく人間)に性的な快楽を与えるために設けられた空間である。バーチャルな空間なのかとも思えるが、実体のあるリアルな空間なのかもしれない。ここは謎であって、読者が勝ってに想像するしかない。 
 
 ここに住むAIたちは、人間と同じように痛みを感じ、彼らには「死」もある。物語の中心になるAIは、少年ジュールと少女ジュリーの二人。この二人が、鳴き砂の浜に「硝視体(グラス・アイ)」という特殊な能力を発揮する物体を探しに来る。説明もなく登場する「硝視体」。それがどうして「夏の区界」にあるのか。「硝視体(グラス・アイ)」は、区界の外部からもたらされたものなのか。そうではなく、破壊され、死んでいったAIが結晶化したものなのか。いろいろ考えてしまう。このSFは、読者の想像力をかき立てる。

 AIは、「夏の区界」にやってくるゲストに対して完全に従順であるようにプログラムされていて、ゲストはAIにどのような酷い陵辱を与えることも許されている。だが、この「夏の区界」に千年前に起こった「大途絶(グランド・ダウン)」以来、ゲストはやってこない。この「グランド・ダウン」とは何だったのか説明はない。AIは、悲しい宿命を背負っている。各AIには、実際には存在しない祖先の記憶、幼い頃の記憶などがプログラミングされている。おそらくAIには自分がAIであるという意識はないのだろう。AIは、普通の人間と同じように感情をもち、なによりもこの物語では重要となる「痛み」を感じるのである。
 

「大途絶(グランド・ダウン)」から千年間、訪問者のいなかった「夏の区界」に外部から訪問者がやってくる。それは、「蜘蛛」と名づけられた破壊機械を自由に操るランゴーニである。ランゴーニに挑むのが、少年ジュールや少女ジュリーたち特殊能力を持つAIである。AIたちが、破壊機械の「蜘蛛」と戦うために使うのが「硝視体(グラス・アイ)」である。AIは、勇敢にランゴーニと戦う。しかし、ランゴーニによって「夏の区界」は破壊されていく。ランゴーニは、次々にAIを残酷に破壊(殺して)していく。区界はどんどん消えていくのである。グラス・アイとそれを操るAIとランゴーニとの戦闘。
 
 なかなか物語に明るい展望は見えない。このまま悲劇で終わってしまうのか。少女ジュリーも死んでしまう。最後に残ったのは少年ジュールとわずかなAIだけである。ジュールが、海に背を向け、海と反対側に歩きだすところで物語は終わる。


☆『グラン・ヴァカンス』は美しくも”残酷”な物語である。この小説は、未来の科学や技術を物語のベースに書かれるハードSFとは一味も二味違う作品である。不思議な魅力がある作品。このような作品をファンタジーSFといっていいのだろうか。再読する価値のある傑作である。