升田幸三物語 第90話
「将棋界の活況」
そろそろか、
再起の時。
病まば見るべし萩すすき
東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用
名人位を失い、休場した升田は体力の回復に専念していた。
「勝負観が変わるのを自覚したが、もう一つ変わったものがある。それは“女房観”だ。女房をおだてる、いや、大事にすることを学んだ。
それまでの私は、女とは勝負の世界には邪魔くさい存在だと考えていた。対局で出発するときに駅まで見送るというと、そんな恥ずかしいことはするなと言った。帰途は、勝っても負けても、5、6か所は飲み歩いてわざと遅く帰る。男の仕事は、女の台所仕事とは根本的にちがうと思っていた。だが闘病生活の結果、女房の仕事にもそれなりの苦心があり、男にとって必要不可欠な存在だということがよく分かった。今まで見えなかったものが見えたのだ。以来、女房を連れて歩くのも平気になり、家にもまっすぐ帰る。この女房観の変わったことは、まさに私の大転機といえる。その後は、勝利の感想を聞かれるごとに本気で『女房のおかげです』と言っている」
静尾夫人は「それがずっと続いてくれたらよかったんですが」と言う。元気になると、やっぱりだれかを誘って飲み歩く。
「私には男の方の世界がよく分かりません。一番勝った、二番勝ったいうて喜んで祝盃を上げて帰りなさるのはいいんですが、やっぱり疲れて翌日はぐったりでしょう。全部(七番勝負)勝ってから、ゆっくりお飲みになればいいのに、と、いつも思いましたね」
升田の人生の師、吉川英治が静尾夫人に送った書簡がある。すでに吉川全集の中に活字で公表されているものなので、私が深く感銘を受けた部分だけを転載させて頂く。
日付は昭和34年の6月25日。
「升田君がおもひ切って御静養につかれたのを私たちは乍蔭(かげながら)よろこんでをりますが然しあなたにとってはお淋しくもあらうし腕白坊をかゝへておるすとさぞたいへんでせう」
「どうも世間は勝負師々々々といひすぎます 又勝負師の女房とあなたに偏した同情をもちすぎます あなたは良いお母さんであることがいちばんですよ
升田君もまた人間としてよい人間のよい生活をたどって行ければそれが最上位のものなんです 名人位などはその次のもんです」
「人生悠々といふ風に考へて九段でも八段でも七段でもいいからよき生涯といふのを基盤としてください そしてからだもなほり意気そこに燃えるときに出会ったらやってみるとしたらいゝ だがら私は去年『病むもよし病まば見るべし萩(はぎ)すすき』を贈りました 『一病息災』といふ語もあります うんとのんきにさせてやってください」
(続く)
静養はできない升田
東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用
大看板升田の休場は、団体としての日本将棋連盟にとっては痛かった。すべての棋戦を「升田抜き」で契約しなければならない。それに病気という理由であるからには公式行事や指導対局、講演などへの出演も建て前としてご遠慮願わねばならない。
前例に従えば升田は一年間「前名人」を名乗るはずだったが「そんなものいらん」とにべもなく辞退した。「九段」で結構。九段は古来名人の段位である。升田のほかには引退した木村義雄十四世名人、現役には大山康晴名人、塚田正夫九段がいただけだ。
しばらく東京の慶応病院で入院生活をしたあと、気分転換のため奈良県大淀町の夫人の実家で静養することにした。夫人は晋造(5歳)高寛(2歳)の腕白兄第を抱えているので東京に残った。
奈良の北村家は土地の名門で、代々教育者の家柄。住まいは快適だし、吉野川沿いの美しい土地だったが、升田はのんびり読書や釣りを楽しむようなタイプではない。少し元気になるとおしりがムズムズして来る。
ある日突然、東京の家へ飛行機で舞い戻って来た。仲間に知らせると「碁を打とう」「一杯やろう」とか「パーティーに出てくれ」と人が来るに決まっている。夫人は「将棋の方たちには内緒ですよ」と笑って元通り東京で一家四人、水入らずで暮らすことに同意した。
二人の男の子は可愛い盛り。升田家にとって最も平和で、楽しい時期であったろう。このときじっとしていられない升田は急に独断で家探しにとりかかった。不動産屋巡りをして、同じ中野区内、鷺の宮(現白鷺)に古い建て物ながら広い家を見つけ、電光石火、転居を決めてしまった。
「居は気を移す」という。名人、王将、九段の“三冠”を失った升田は、来たるべき捲き返しに備えてしっかり“自陣”を堅めたのだ。
なお、升田には桐谷広人六段のほかに二人の弟子がいた。一人は桐山清澄。奈良の夫人の実家に近い、和菓子店の子で、四枚落ちで指してやったのが機縁で棋士を志し、8歳で東京へ来て升田の内弟子になったがまだ奨励会に入れる棋力がない上、ホームシックにかかり、母親が様子を見に来た時、くっついて一緒に奈良へ帰ってしまった。四か月間の内弟子生活に過ぎなかったけれど桐山九段にとっては最初の恩人である。
二番弟子は山本統一。昭和15年、長野県松本市の生まれ。升田が三冠王であった33年に入門、6級で奨励会に入り3年余りで初段に昇ったのだったが、次の三段リーグの厚い壁を突破できず退会、指導棋士六段。
桐山と同様に弟子ではないが、升田と親しい南口繁一九段門下の天才・加藤一二三も、上京して升田の世話になった。35年に20歳・八段で京都の高校時代の同級生と結婚した時も、升田夫妻が媒酌人になった。
「仲人は梅原画伯」と書かれたこともあるが加藤ピン先生に訊くと「ええ、そう、どちらも正しいのです」と笑っていた。“ダブル仲人”というのもあるらしい。
(続く)
二年間の休場
東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用
愛棋家の永井龍男は『週刊朝日』に手記「升田名人位を去る日」を寄稿した。結びの部分を引用する。
「第5局の勝敗が決した6月12日午後、対局場に殺到した報道陣に囲まれて、にこやかに新名人の感想を語る大山と、わずかに首をかしげてそれに聞き入る升田の後姿は、翌日の朝日新聞に大きくスナップされている。
毎々のことで、勝者も敗者もわれわれが考えるほど、あるいは深刻な心境ではないかも知れない。しかし、それもいまあらためて切り抜きを取り出してみると、棋譜の裏面ににじんだ血肉を生々しく感じるように思う。
なぜ升田の体は、きょうまで放って置かれたのか?
名人戦終了後、升田は引退を決意したという風説が、われわれを驚かせた。
幸いに誤報で総ての対局を休み、升田は療養に専心するそうだ。
闘病という、使い古した言葉があるが、升田の場合にはもっとも相応(ふさわ)しいような気がする。
持病と闘ってこれを克服することは、一期の名人位を獲得するよりも難事かと思われる。升田の闘志が、これをやり抜くことが出来ないようでは、自ら恥ずべきであろう」
周囲の強い勧めに従った升田は、一年半の休場届けを出した。名人戦が終わっても、他の棋戦がある。松田茂行八段との全日本選手権戦(九段戦)準々決勝3番勝負など、4つの対局が升田の不戦敗となった。前にも記したが升田には大山との第2回王座戦決勝3番勝負(1対1の後)を病気で不戦敗するなど、戦わざる黒星が非常に多い。
体力も実力のうちと言う見方もあるけれど、近ごろは「何でも数字」で、勝数(敗数不問)による昇段制があるとか、600勝(升田は該当せず)した棋士に将棋栄誉賞を贈っている。それらは敬老行事だからよいとしても、名人戦の2日がかりの1勝も、早指しで1日に4勝できる棋戦(テレビ対局予選)の1勝も、各種記録上、同じ「公式戦1勝」として処理されるのは納得でき兼ねる。全盛期の大山も言っていた。
「7番勝負で4連勝なら10割だけど、4勝3敗は率に直すと5割なんぼでしょ。そんなんで年間勝率第何位いわれたってね。わたしだって升田さんだって面白くないですよ、そりゃ」
(続く)
『升田将棋選集』の第4巻に、この第18期名人戦の棋譜は、たったの1局しか収録されておらず、敗れた4局は全部割愛されている。
相矢倉から互いに手待ちがあり、参考A図の△7五歩は56手目。
升田自身は「もちろん作戦負け」と言っている。が、その通りなのだろうか。
参考A図以下を少し記そう。▲4四歩△同銀▲2四歩△同歩▲4五歩△3三銀▲5三角成△同銀▲7五歩△4六歩▲同銀△4七角▲2六飛△6四銀▲6一角△7一飛▲5二角成△7五銀。
古来、病身の棋士の攻めには共通した異様な迫力がある。一気攻略を狙うからである。大山はいつにもまして慎重で、升田の鋭い狙いをかわしつつ戦った。
自戦記で大山は「このあと△9二飛から端を攻められて楽観は吹っ飛んだ」と記しているし、非常にきわどい攻防だったように思われる。実際、終盤近く控室は「升田に勝ちがありそうだ」とざわめいた。
だが大山は完璧と言えるほど厳しく攻め、うまく守った。
145手目、参考B図の▲2九玉が指されたとき升田は、低い声で投了を告げた。
「負けた」
この第5局、大山の名人位返り咲きの一番は非常な接戦で、大盤解説を見るファンを一喜一憂させたし、大盤解説及び講評に当たった木村十四世名人も、「この将棋は名人戦中の白眉である。と同時に最近の秀局といえる」と賞讃した。
(続く)
名人位を失う
東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用
画家の梅原龍三郎は典型的なアマチュアだ。私も自邸へ伺って見せて頂いたことがあるが、相手がプロであれ仲間のヘボであれ、勝った将棋は丹念に棋譜を書き残していた。別にノートがあるわけではない。あり合わせの反古紙に絵筆の大きな字で書き留めるのである。
升田はお世辞負けが大嫌いだから梅原邸へ行く時は、指す相手を連れて行った。
「最初に玄人に勝ったのは有吉君だ」
「そうそう。有吉道夫がまだ四段か五段のころだ。あれはよくできた。梅原先生の傑作」
自慢話が始まると、お付きの女性が畳一枚ほどもある“記録”を持って来て壁に掛ける。その二枚落ちの棋譜を背景にして梅原・升田の悠々たる将棋談が続くのである。絵の話。子供の純真な心の話。時を忘れてにこやかに老画伯の話相手をつとめる升田。
大酒、タバコ、放言。時にきわどい男女関係の話。勝負の場でしか升田という男を知らない人には「がさつな男」としか映らなかったろうが、全く別人の姿だった。
今思い返すと、相手の指した好手をほめることが稀であった。これを「負けず嫌い」と簡単に片付けるのは誤りであろう。好調の時の升田は“将棋の神様”に見てもらうために将棋を指しているような感じで、一手の無駄もない最短距離の勝ち方を望んだ。それが見事に成功した時の自慢が本当の自慢である。弱い相手に勝っても少しも満足せず、筆者の感じでいうと升田が強敵と見なした棋士の数は、生涯10人を出ないだろう。
さて、1勝3敗とカド番に立たされた第18期名人戦。第5局は昭和34年6月11、12の両日、東京の「羽沢ガーデン」で行われた。
「あそこは大山の牙城だからな」
そんなことは言ったけれど、升田は別段ここでの対局を嫌うふうでもなく、広い庭園や座敷など、むしろ好みに合った場所らしかった。牙城とは、大山が女将と特別に親しく、また、ある女性との関係が大っぴらに知られていたことを指している。
「陣雲暗くして将帥病む――升田の病状は本当に重かったのである」
金子金五郎の観戦記は、重々しくはっきりと升田の病体を伝え、健康そのものの大山の姿に対比して「升田は左の手のひらの裏を返したりそれを見つめはじめた。病人が所在ない時によくやる動作である」と観察している。