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クオの別世界

学生時代に書いた初々しい小説、コピーライター時代を語る懐かしいエッセイ、そして文章家として活動する日々の合い間のエッセイや小説を掲載しています。



クオの別世界



 棋譜に興味のない方も、ちらっと参考図を見て頂きたい。

 ▲9六歩に対し、だれもが当然と思っていた△8六歩を、升田は選ばなかった。

 参考図で、△9六同銀の奇手。

 名人戦という大舞台に立って、こんな新手を敢行できる名人。

 △9六同銀▲同香△9四歩に大山は▲9七角の奇策で応じている。

 しかしこの端角(別名恥かく)には読み落としがあり、大山は不利に陥った。

 観戦記で金子金五郎八段は、升田将棋を次のように解説している。

「ひところ“将棋も芸術だ”と升田はいっていたが、升田の将棋にはある美しさがあることは事実だ。たとえば、彼の序盤などの層々累々といった調子にコマ組を構築して行き、その中にいつも重点的なねらいを蔵しているさまは、雄大な建築という感じをうける。これは升田の将棋がだれよりも体系的であるということであろう」

 92手で升田は快勝した。

 むろん大山側から見れば、端で角交換を挑んだ手が自滅的敗着という結論に達するのだろうけれど、全国の升田ファンは、見たことのない「△9六同銀」の一着に酔うのである。

 木村義雄十四世名人も、恒例の最終譜に書く講評で升田の新手をほめている。

 第2局は4月27日から、大阪・帝塚山の「鉢の木」で行われ、仏法僧の観戦記の冒頭には「升田の健康が果たして7番勝負の長丁場に耐えうるであろうか」と書かれている。

 この対局では、大山がしきりにタバコを吸い、禁煙中の升田が、つまようじの先に塩をつけてなめていた。

 将棋は矢倉模様の出だしから後手番大山がまたもお株を奪う「陽動振り飛車」で巧妙に作戦勝ちをして押し切った。升田らしさのまったく出ない拙戦であった。

 今の名人戦と違うのは終局直後の写真撮影。カメラマンの要望に応じて「投了のシーン」を升田が何度も演じたのだそうである。

 この慣例が勝敗を逆転させた有名な話がある。昭和

30年に行われた、大山名人対高島一岐代八段の第14期名人戦第1局、当時“日本一の攻め”とうたわれた高島の猛攻が決まり、大山は入玉模様に粘ったが、控室では「高島必勝」の結論が出た。

 名人もほとんど負けを覚悟していたとき、廊下で騒音。投了を待つカメラマン数人がポケットに入れていたフラッシュ用の電球が触れ合う、カシャカシャという音だった。これを察した大山が持ち前の反発心で「よし、皆がそう思ってるなら長びかせてやれ」と悪粘りを始め、楽観した高島が再三、決め手を逃して入玉を許し、大逆転負けを喫したのである。

 さて、升田―大山の名人戦第3局は東京の「初波奈」で行われ、相矢倉、107手までで大山の勝ち。

 第4局は京都・祇園の「中村楼」で行われ、これまた相矢倉、138手で大山の3連勝となった。非常に珍しい早指しで、初日の午後、終盤戦に突入し、1日で終わってしまうのではないかと関係者をあわてさせた。

 原因は、升田ばかりでなく大山も風邪で体調を崩していたためだ。愛煙家の大山がこの日は苦しくてタバコが吸えず、やむなく禁煙していたのだが、勝利をきっかけとして、以後一本もタバコを吸わなかったという。


(続く)


大山の追撃は急


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 33年度の王将リーグ戦は、前述のように升田に不戦敗2局があり、A級の高島一岐代八段と当時B1の広津久雄七段が5勝2敗の同率で、挑戦者決定戦は高島の勝ち。しかし好調高島も大山王将には3連敗して半香に指し込まれ、残り4局のうち香は2勝したが、平手は1番も入らず、2勝5敗で屈伏した。

 升田から九段位(全日本選手権)を奪い、王将のタイトルを守った大山は、升田同様の過密日程ながらA級順位戦でも7勝2敗の星で、塚田正夫九段との同点決勝3番勝負にストレート勝ちして、升田の“最後の砦”となった名人位に挑戦して来た。

昭和34年の4月16日、第18期名人戦第1局は東京の「羽沢ガーデン」で行われ

た。 

名人戦で3期続けて同じ顔合わせになるのは史上初めてのことであった。

第1局は、翌17日の午後に千日手となり、中1日おいて19日から、先後交替、持ち時間は減らさない各10時間で指し直しとなった。

 作戦が注目されていたが、千日手局も指し直しも、5手目▲7七銀の相矢倉になった。



 

 17日、升田は疲労の抜け切れぬ体で大山との第5局に臨む。相矢倉。

「他の人には体力をセーブする早指しで勝てたが、この当時の大山君は強く、体力がなければとても倒せる相手ではなかった」

 この将棋も、必勝形になってからのエラーで失ってしまう。参考B図だ。▲2三歩と打てば△同銀に▲4二桂成△同玉▲4五桂で勝ちである。先手の玉は一手スキでないから、かなり見易い寄せだったのに、升田は、

「読んでいるうちに本譜(▲4二桂成△同玉▲3四銀)のほうが簡単だと錯覚してしまったのだ。▲3四銀と打った時に、まだ銀が2枚あるから詰めろだ、と思った」

 と言う。▲3四銀と打ち、△6七金と取られてから銀が足りないことに気付いたのだから、まったくひどかった。投げ切れずに粘る手順を選んだがすでに遅い。146手、升田の消費時間は3時間17分、大山は6時間14分。

 2勝の後の3敗。第6局は師走の26日、東京の「竜岡」で行われた。

「大山君の先手番で矢倉模様に来たが、私はもとより後手番で相矢倉をやる気はない。逆転負けを喫した第4局のあの形(参考A図=前掲)へ誘導しようとしたわけである。もちろん全く同じにはならぬが、この戦型で勝たなくてはどうしても腹の虫が治まらん」

 大山も予期しており、引き角にしないで▲6六銀と出る銀対抗の形にした。

 この将棋はドラマチックな展開で、形勢が転々とする。いかにも「升田―大山戦」という感じのするねじり合いになった。

 入玉模様、189手の長尺である。終盤の1局面を参考C図としてごらん頂く。「百聞は一見にしかず」の図面で、升田陣の1段目に歩が3枚並んだ珍形であった。△5四桂は打ったのではなく、4二から跳んだ駒。

 病後の升田は気短かになっていた。持ち時間を3時間以上余していながら、終盤はほとんど考えずに指して、あっけなく投了した。




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(続く)


九段位を守れず


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 第3局は大阪で行われた。升田の先番で相矢倉になったが、大山の作戦が巧妙で、お株を取られた升田は完敗した。136手で、升田の解説によれば序盤で負けているという。8時間のうち5時間以上を余して、ずるずると押し切られる、升田の悪い時のパターンであった。

 第4局は「陣屋」で行われた。体調はすぐれなかったが、この将棋は「新手一生」の升田らしい作戦ぶり。

 参考A図をごらん頂く。

 相矢倉を避けた中飛車。▲7六歩△8四歩▲6八銀△3四歩▲7七銀に△4二銀と指して飛車を振る。升田はこのころから「5手目の▲7七銀を悪手にする方法」を深く考えていた。

「▲7七銀悪手説」は現代の若手の中でも論じられているが、振り飛車にして後手有利を打ち出そうと試みたのは升田である。なお5手目▲7七銀の矢倉は、昭和初期に山本樟郎八段が指したのが初めてだと思う。

 この将棋は升田の勝勢になったのだが、70手目に手拍子の大悪手をやって、以下の粘りも空しく、125手で投了。12月8日午前9時開始で、終局は午前0時40分。

 対局過多が升田をさらに苦しめる。

 12日に早指し王位戦で加藤博二七段に勝ち、翌13日に王将リーグ最終戦を指して、挑戦権目前の広津久雄七段に勝った。

 余談ながら広津の真の敗因は、都市ガス中毒だった。暖房のガスストーブの管が破れたのに、将棋連盟住み込みのおたかばばあという名物オバサンが包帯でグルグル縛って使用したから、という恐ろしい話を思い出す。




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絶大な升田の人気


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


 昭和33年7月、升田名人・九段は大山康晴王将の挑戦を4勝2敗1持将棋で退けて名人位を守ったが、8月下旬、血を吐いて入院した。診断書の病名は胃潰瘍だった。

 この時すでに「手術が最善。少なくとも対局は無理」と診断されていたのだが、二冠を持つ升田の責任感は医師の反対を押し切った。

「決して無理はしないから」という約束で、静養2か月ののち戦列に復帰した。将棋連盟も、大黒柱に休場されては困る。その間、王将リーグの2局を不戦敗にしただけで升田のカムバックを待った。

 10月13日の対局から、当時としては前例のない過密日程が待っていた。12月26日までに、タイトル戦をふくむ17局。升田は他の仕事や招きを一切謝絶して対局を続けた。

 第9期全日本選手権戦(九段戦)は、絶好調の大山王将(当時の肩書きとしては王将を用いず、段位としての九段)と、加藤一二三八段が挑戦権を争ったが、3番勝負はストレートの2―0で大山が勝ち、またしても升田の前に立ちふさがった。

 第1局は11月11日に行われ、大山の四間飛車に対し升田の▲5七銀左作戦、115手で升田勝ち。各8時間の1日指し切り制。体力をセーブする升田は、3時間54分しか使わなかった。

 中2日で、新聞三社連合主催の「名人A級勝ち抜き戦」を指す。

 相手はなんと、また大山。

 当時、産経が主催していた「早指し王位戦」が各3時間で、順位戦をはじめほとんどの公式戦が7時間の時代である。中2日は升田にとって厳しすぎたと思うが、三社の勝ち抜き戦でも升田が勝った。

 中4日で19日、「九段戦」の第2局も升田が勝った。大山に4連勝だ。

「やっぱり強い」と、タイトル防衛を予想した升田ファンは喜んだ。

 ちなみに、このころ雑誌「近代将棋」で行われていた棋士人気投票では、3年連続して升田が大差の1位で、新鋭二上達也、加藤一二三の人気が高く、大山はいつも

4位か5位であったと記憶する。

 川端康成は、囲碁の秀哉名人の対局を描いた実録小説『名人』の中で「勝負の世界では常に英雄を実力以上に祭り上げるのが見物の好みのようだ。好敵手が対立するのも人気を呼ぶが、むしろ絶対の一人であるのを望むのではなかろうか」と言っている。

 強い大山をコテンパンにやっつける升田は、まるで将棋の神様のようだった。


(続く)



升田将棋の特質


東公平著「升田幸三物語」(日本将棋連盟発行)より全引用


「将棋の勉強には、まず自分の指した将棋を入念に調べることだと思う」

 升田は、昭和23年、八段に昇ってすぐに書き下ろした『升田将棋』の中でこう記している。それによると、自分が初段の当時、どういう心境で指していたか、二段の時はどうかと、その時々、その段位によって心境なり棋風がどう変わってきたかを調べるのだという。

「今までのやり方を調べて、自分の良いところはあくまで助長させる、伸展させる。悪いところは惜しみなく捨て去ってしまう」

 同時代に木見門下の内弟子をしていた角田三男(追贈八段)の話では、升田が将来名人になる大器だと確信したのは昭和9年ごろだという。そのころ東京の棋士が大阪で対局する場合、ほとんどの人が木見八段宅へ泊った。角田や升田は東京の六、七段の先生に角落ちでお礼の稽古をつけてもらったが、升田は初段のころから、まったく将棋にしなかった(完勝した)というのである。

「従来の定跡なんかアカン、いうて、自分でこしらえた独特の中飛車戦法で簡単に破るんですわ。それを見てですね、才能を感じました。思い返してみますと、升田は、私らの前で盤に駒をならべてごちゃごちゃするような勉強はほとんどしてなかったですね。なんかで勉強はしてたはずですが、わからなかったな」

 升田は、むろん駒を並べてみたことはある。特によく見たのは「幕末の棋聖」と呼ばれた天野宗歩の棋譜。この人の将棋は序盤感覚が優れていた上に、中盤以後の読みに狂いがない。

 しかし、好きという点では七世名人、三代宗看の豪放な指し口であった。野太刀を振りかぶり、真向から青竹をぶち割るような棋風に魅力を感じたそうである。後年、新戦法として人々を驚かせた「升田式石田流」のルーツというか、ヒントになった棋譜は、三代宗看の左香落ち局であると思う。

 この名人の詳しい伝記はないのだが、

「三代宗看と私は、性格が似ているように思う」と升田は言う。さらに語を継いで、

「現代の人達のは、木村名人らの棋譜は見るには見るが、盤に並べて調べるというようなことは(僕は)しない」

と、前記『升田将棋』の中で述べている。

 しかし、八段、名人になってからでも、自宅で深夜駒を動かすことはあった。升田名人愛用の盤は夫人の手作り。黒いラシャの布に白い糸で罫が引いてある。子供たちが駒音で目を覚まさぬように、そっと動かしていたのだ。

 将棋の天才というよりは“物事の急所を知る天才”であったと思う。とはいえ、長所の裏は短所である。あまりにも判断がすばやいために時たま「ポカ」が出たのも致し方なかった。

 升田の没後、観戦記もやめた山本武雄九段(陣太鼓)に昔話を聞きに行った。

「升田さんは、自分の誤解に気が付くとあっさり謝ったね。あの人のいい所だね」


(続く)